ガストンからエンリコ・マシアスへ

エンリコ・マシアス(本名ガストン・グレナシア)が生まれたのは北アフリカのアルジェリア。 そのアルジェリアには、古来より様々な民族が出入りした。 フェニキアやローマはあまりに遠いとしても、ベドウィン、ベルベル、アラブ、ユダヤ、 ジプシー、トルコ、フランス等々。 民族、宗教が様々なら、音楽も様々。お互いに影響しあってもいる。 ガストンは幼いころからこれらの音楽を滋養豊富な耳の栄養として、 自然に体内に取り込んでいたことだろう。

彼が音楽に目覚めたのは10歳のころ。 音楽に興味を示し、フルートを吹いてみたり、ギターを爪弾いてみたりしたという。 ガストンの音楽的才能は父親ゆずりだった。 父のシルヴァンは友人のレーモン・レリスの楽団でバイオリンを弾いていた。 レーモン・レリスは「シェイフ・レーモン」の尊称で呼ばれた 古典音楽マルーフの巨匠である。 マルーフとは昔スペインのアンダルシア地方にあったアラブ系王国の宮廷音楽を 起源とするアラブ・アンダルース音楽の一派で、特にその伝統を忠実に守っているので、 マルーフ(“忠実”の意)と呼ばれる。

そのガストンは、12歳のときに、祖母からギターをもらう。 自分の楽器を持てたことで、嬉しくて、さらに音楽にのめりこんで行ったことだろう。 ギターは彼の生涯の友になった。 彼は「トントン」と愛称で呼ぶレーモン・レリスからギターの弾き方を教わり、 そして15歳のときには、楽団でギターを弾くまでになっていた。

一方、少年の耳にはラジオから西洋音楽(特にフランス)をはじめ、 いろいろな音楽も流れてくる。 シャルル・アズナブールやダリダ等々。 こういう流行音楽にも耳を傾け、しっかり吸収した。 しかし彼が一番好きだったのはフラメンコ音楽だった。 彼が住んでいた家の近くにはカフェがあり、 そこにジプシーたちが集まり、フラメンコ音楽を奏で、歌っていた。 そのうち、自分もギターを持ってその仲間に加わることができた。 彼は仲間から「小エンリコ」と呼ばれるようになった。

また、そのころは作曲もするようになった。 学校の同級生で、 彼の席のうしろに座っていたリュシアン・アリミ(Lucien Halimi)は詩を書くのが上手だった。 一方、ガストンのほうは曲作りが得意。 こうして二人のコンビで、後にフランスでレコードとして発表される 「はじめてのくちづけ(Par Ton Premier Baiser)」や「Chiquita」が作られた。

16歳のときには、仲間に勧められて、ラジオの歌謡コンクール(のど自慢)にも出た。 びくびくしながら臨んだ会場であったが、思いもよらず優勝の栄冠を手にした。 これに自信を得て、ほかのコンクールにも参加するようになった。 ただ、父のシルヴァンはガストンを将来音楽家にさせようと考えていたわけではなく、 もっと安定した職業、たとえば教師になってもらうことを願っていた。 そこで、1956年にガストンをパリの親戚の家に預け、 そこから高校に通わせた。 アルジェリアの情勢がだんだん不安定になってきたのも一因だった。

1959年に、ガストンはバカロレアの試験にパスし、 父の助けもあり、アルジェリアで念願の教師になることができた。 ただ、仕事のかたわら、歌も忘れていなかった。 そのころ、コンスタンティヌのカジノでラジオの歌謡コンクールがあることを知り、 出場して、優勝した。 そこには、将来トレマレコードの創業者の一人となるレジス・タラール(Régis Talar)もいて、 ガストンに「君は素質がある。パリに行くべきだ」と激励した。 また、そのおかげで地元のテレビにも出ることができた。 しかしアルジェリア動乱ですべてが変わって行く。 不安を感じた家族はフランスへと避難した。

1961年6月、彼の尊敬する恩師レーモン・レリスが殺されたのだ。 彼はユダヤ人だが、平和を愛し、アラブ人からも尊敬されていた。 その共存の象徴だったレーモンが過激な民族解放戦線(FLN)により暗殺された。 これはユダヤ人社会に衝撃が走った。 彼らはなだれを打つようにアルジェリアから逃げ出した。 7月29日、ガストンも祖父母とともに家族の待つフランスへ船で渡る。 その船の上で名曲「さらばふるさと(Adieu, Mon Pays)」を作ったことはよく知られている。

フランス滞在中、 ニースの叔父からクーザン・ビビと呼ばれている音楽インストラクターを紹介される。 その彼がガストンにサン・ラファエルのカジノで歌ってみないかと言ってくれた。 ジルベール・ベコーが来るという。 そこのオーナーもガストンがショーの前座で歌うことを約束した。 しかし当日の聴衆はガストンに冷たかった。彼は歌い終わって、泣きたいほどがっかりした。 しかし、ベコーの楽団長レーモン・ベルナールはガストンを激励し、 「パリまで私に会いに来てください。レコード会社のディレクターを紹介します。 あなたにはオリジナリティがある」と言って、連絡先を教えてくれた。 また、翌日の日刊紙には、「若いピエ・ノワール(引揚者)の歌手の歌を聞いたが、 彼はそのうち大きく成功することだろう。」とも書かれていた。 やはり見る人はガストンの才能をちゃんと見抜いていたのである。

その後、ガストンは一度アルジェリアに帰るが、 翌年の1962年、アルジェリアにはもう居場所がなくなり、フランスに戻った。 早速仕事を見つけなければならない。 父が知人であったパテ・マルコニ(EMI系のレコード会社)の オリエンタル音楽部門の責任者を紹介してくれた。 早速オーディションを受け、合格した。 2日後には、 作詞・作曲家でアレンジャーのアンヌ・ユリュゲン(Anne Huruguen)に引き合わされ、 彼女の指導の下にレコーディングが始まった。 実は、同じ時期に、飛び込みで、 ピガル広場とブランシュ広場の間にあったという キャバレー「ロバンソン・ムーラン・ルージュ」のオーディションも受け、 毎週土曜日1ヶ月3000フランで契約した。 ただ、ディレクターにステージに上がるには本名では具合が悪いと言われたので、 「エンリコ・ナシアス」と名乗ることにした。 エンリコは昔アルジェリアで呼ばれていた「小エンリコ」を思い出し、 ナシアスは本名グレナシアを短く詰めたもので、 パテ・マルコニのレコードにもこの芸名を使う予定だった。 しかしレコード会社の秘書と電話でやりとりしたため、正確には伝わらず、 結局エンリコ・マシアスの名前でレコードは作られたのである。 このデビュー・レコードは1962年の4月に発売されたと言われている。 エンリコ・マシアスという歌手がこうして誕生した。

(作成:2012年01月01日)