☆1970年代の台湾の歌姫たち☆


 
欧陽菲菲(オーヤンフィフィ)
【本名】歐陽菲菲 【出生地】不詳 【誕生日】1949年9月15日
 
「雨の御堂筋」 東芝音楽工業(株) TP-2517(1971年9月)日本デビュー盤
 
1967年に台北のレストラン・シアター「中央酒店」でデビュー。 1969年にスカウトされて日本へ。 1971年9月にベンチャーズ作曲の軽快な「雨の御堂筋」でレコードデビュー。 外人のタレントが日本語で歌うのは初めてだった。しかし空前の8週連続第一位という この大ヒットにより、彼女は日本の歌謡界を席巻し、大物歌手となる。 1972年12月にはNHK紅白歌合戦に外国人として初めて出場した。 1978年にはレーサーの式場壮吉と結婚、私生活も充実する。 1980年「ラブ・イズ・オーバー」がヒットし、再び注目が集まった。 1990年代からは母国台湾でも大活躍。1993年のアルバム「擁抱」は30万枚の大ヒットとなった。 1999年の台湾大地震の時には、チャリティーコンサートも行った。
(2003年01月12日記載)
「雨のエアポート」
東芝音楽工業(株)
TP-2579(1971年)
「恋の追跡」
東芝音楽工業(株)
TP-2652(1972年)
「夜汽車」
東芝音楽工業(株)
TP-2709(1972年)
「ラブ・イズ・オーヴァー」
ポリドールレコード
7DX-1189(1982年)

 
王祥齢(ワンシャンリン)
【本名】王祥齢 【出生地】不明 【誕生日】1952年
 
「孤児マリー」 テイチク(株) SN-1264(1972年8月)日本デビュー盤
 
王祥齢はもともと中国文化学院の音楽舞踊専修科の学生であったが、 台湾電視(テレビ局)が1970年に催した第4回歌謡コンテストで第2位となり、 テレビ局との契約により、歌手、女優、ファッション・モデルの仕事をするようになった。 日本のテイチクレコードも彼女に目をつけ、家族を説得して、 日本に呼び寄せ、デビューさせることに成功した。 デビュー曲は「孤児マリー」。 その後の彼女のトレードマークは頭のてっぺんに巻いたドーナツの髪型。 1973年に「強い男が好き」、「北国のあなた」、 「港のメイラン」の3枚のシングルレコードを立て続けに出した後、 日本を去って行った。 しかし台湾に帰った後、芸能活動はあまり順調に行かなかったようである。 いつしか忘れられてしまった。
(2015年10月19日記載)

 
方怡珍(ファン・イーツン)
【本名】曽覚方 【出生地】台北市 【誕生日】1952年8月15日
 
「我愛」 徳間音楽工業(株) VA-24(1973年4月)日本デビュー盤
 
「20世紀のモナリザ」と称された彼女は 1973年4月25日に「ウォー・アイ・ニー(我愛)」で日本デビュー。 それ以前の彼女は台湾のテレビ会社中國電視の専属で、映画は中央電影に所属し、 ファッションモデルのクラブにも入っていたという。 17歳の時、女優として芸能界入りした美貌の持ち主。 歌の方も大いに才能があり、香港、タイなどでも活躍していたのを日本のスカウトマンが見つけ、2年間かけて彼女と彼女の両親を説得して日本デビューさせた。 欧陽菲菲、アグネス・チャンに続く第三の大型歌手となるはずだったが、 残念ながら3枚のシングルと1枚のアルバムを残して、去った。
(2003年01月12日記載)
「涙を少しだけ」
徳間音楽工業(株)
VA-31(1973年)
「夢のアルバム」
徳間音楽工業(株)
VC-7511(1973年)
「一・二・三・四 来来来」
徳間音楽工業(株)
VA-36(1974年)

 
咪咪(サイ・ミーミー)
【本名】蔡雪卿 【出生地】雲林縣 【誕生日】1957年11月1日
 
「年頃なのね」 東芝EMI(株) TO-2900(1973年9月)日本デビュー盤
 
彼女は雲林で生まれたが、6歳の時、嘉義に引っ越した。 8歳の時、嘉南地区歌謡コンテストで優勝。 1969年台湾テレビの「群星会」番組にも出演。 この後「五花瓣」合唱団を立ち上げて、テレビのみならず、台湾各地のナイトクラブやミュージックホールなどを巡回。 「媽媽送我一個吉他」などのヒット曲を次々と出す。 美空ひばりの歌が好きな彼女は、1973年「年頃なのね」で日本でもデビュー。 残念ながら大ヒットするには至らず、撤退した。 そして1980年、2歳年上の王令麟(現東森メディアグループ理事長)と結婚、23歳という若さで芸能界を引退する。
(2003年01月12日記載)

 
ヤン・シスターズ
【本名】阮瑤玲、阮瑤[王賈]、阮瑤貞、阮瑤文 【出生地】 不詳 【誕生日】不詳
 
「子供すぎる彼」 (株)キャニオン・レコード A-204(1974年2月)日本デビュー盤
 
「列島を揺さぶるピンク・ダイナマイツ」という勇ましい触れ込みで登場したのが 四人姉妹からなるヤン・シスターズ。 長女Kathy(当時21才)がべ一ス、次女Jenny(当時20才)がリードギター、 三女Tina(当時18才)がオルガン、四女Sandy(当時16才)がドラムを演奏したが、全て独学という。 日本デビューの2年前の台湾のコンクールで第一位になり、 その後台湾テレビの専属になっていた。4人ともタップ・ダンスがうまく、 言葉は日本語、英語が少々ということであった。
(2003年01月12日記載)
「泣いて泣いて」
(株)キャニオン・レコード
A-220(1974年)
「お気に召すまま」
(株)キャニオン・レコード
A-230(1974年)

 
テレサ・テン《麗君》
【本名】 【出生地】雲林縣褒忠郷 【誕生日】1953年1月29日
 
「今夜かしら明日かしら」 ポリドールレコード DR1835(1974年3月)日本デビュー盤
 
彼女は1953年雲林で生まれたが、6歳の時に台北に引っ越している。 幼いころから歌の才能は抜群で、10歳の時に中華電台というラジオ局主催ののど自慢番組で優勝。 天才少女との評判が広まった。 1967年9月、14歳のときに宇宙レコードより「麗君之歌第一集」にてレコードデビュー。 初期のころはほかの歌手のカバー曲を数多く歌っていたが、ジャンルはそれこそ多様。 しかもそれを難なく歌いこなしている。中華圏で急速に人気が拡大して行った。 そしてついに1974年3月、シングル「今夜かしら明日かしら」で日本デビュー。 アイドル・ポップス調の曲だったが、あまりパッとしなかったので、次はソフト演歌路線に修正。 この「空港」があたり、日本レコード大賞新人賞などを獲得した。 1979年には偽造旅券事件などもあったが、1980年代は彼女にとって最も輝いていた時代だった。 1983年にはトーラスレコードに移籍し、1984年「つぐない」、1985年「愛人」、1986年「時の流れに身をまかせ」、 1987年「別れの予感」等、今でもカラオケなどで人気のある歌を次々とヒットさせていった。 しかし1995年5月、タイのチェンマイでさびしく病死した。
(2003年01月12日記載)
「空港」
ポリドール(株)
DR1865(1974年)
「つぐない」
トーラスレコード(株)
07TR-1056(1984年)
「愛人」
トーラスレコード(株)
07TR-1086(1985年)
「時の流れに身をまかせ」
トーラスレコード(株)
07TR-1115(1986年)

 
優雅(ユウヤ)《尤雅》
【本名】林麗鴻 【出生地】台北市 【誕生日】1955年12月18日
 
「処女航海」 (株)CBS・ソニー SOLB-119(1974年3月)日本デビュー盤
 
1971年台湾の連続TVドラマ「姉妹花」「鳳凰樹」に主役出演、主題歌を歌い人気を博す。 「往事只能回味」は東南アジアでも大ヒット、同年映画化もされ(劉家昌監督)、史上最高の売上記録を作る。 台湾、香港、シンガポール等に後援会があり、100万ドルの笑窪でファンに親しまれた。 18歳の時、親日実業家の父親のすすめで、日本へ行くことを決意。 作曲家の筒美京平に師事。「処女航海」で日本デビューした。 「胸さわぎ」、「異国の風」などのヒット曲がある。 台湾でも当時鳳飛飛と並ぶビッグ・アイドルで、数多くのアルバムを出している。 1986年に出した台湾語曲の「等無人」も大ヒットした。
(2003年01月12日記載)
「胸さわぎ」
(株)CBS・ソニー
SOLB-159(1974年)
「異国の風」
(株)CBS・ソニー
SOLB-184(1974年)

 
藍毓莉(ラン・イーリー)
【本名】藍毓莉 【出生地】台北市 【誕生日】1953年11月28日
 
「わたしは蝶々」 日本コロムビア(株) P-345(1974年4月)日本デビュー盤
 
父は軍の将校で、彼女は上流家庭に育った。 両親ともに彼女の芸能界入りには大反対であったが、 その美貌と才能は周囲が放っておいてくれず、最初テレビのドラマの主役にスカウトされた。 さらに映画からも注目され、3万人応募のオーディションを受けて、第一位となり、 一躍主演スターにのし上がった。それ以前に合唱コンクールで上位入賞、 民族舞踊コンクールでは優勝経験もある。 そんな台湾のテレビ、映画界でとびきりの人気スターが「どうしても日本へ行きたい」と いう希望により、1974年来日。早々に「わたしは蝶々」で歌手デビューとなった。 やはり念頭には先に大成功した欧陽菲菲があったに違いない。 彼女の歌唱スタイルは欧陽菲菲にそっくりである。 とにかく「台湾旋風の目」として、やって来たのであるが、 一方の美人歌手方怡珍ともども最初の熱気が冷めると、人気は落ちて行った。 同時期の歌手としては、テレサ・テンや優雅がいるが、 残ったのはそちらのカワイコちゃん歌手のほうである。 日本撤退後は、台湾や香港の映画に数多く出演している。
(2004年11月12日記載)

 
秀蘭
【本名】洪秀蘭 【出生地】高雄市 【誕生日】1955年3月12日
 
「波止場から」 ビクター音楽産業(株) JRT-1351(1974年5月)日本デビュー盤
 
11歳の時(1966年)に台南亜州レコードより歌手デビュー。 その頃から母親に日本語を習い始め、日本の演歌に深く感銘する。 18歳の時(1973年)に初来日。翌年「波止場から」で日本デビュー。 第17回新宿音楽祭に出場し、敢闘賞を受賞。 その後台湾で18枚のLPを発売。息の長い安定したヒット歌手として大活躍した。 主なヒット曲に「夕陽浪花愛」「母親的思念」「惜別」等がある。 又、テレビ番組の司会やワンマンショー等にも多数出演。 1986年夏、日本テレビ「24時問テレビ〈愛は地球を救う〉9」の中の 「アジア平和コンサート」に出演、チョー・ヨンピル等と共演し好評を博した。 1987年にシングル「異国の港」を出したが、これが日本での最後のレコードのようである。
(2003年01月12日記載)
「逢ってください」
ビクター音楽産業(株)
JRT-1382(1974年)
「捨てられてヨコハマ」
RVC(株)
RVS-1009(1976年)
「異国の港」
ビクター音楽産業(株)
SV-9194(1987年)

 
シャーリー・シャウ《蕭珠》
【本名】蕭珠 【出生地】嘉義市 【誕生日】不明
 
「潮路」 日本コロムビア(株) AA-52(1974年6月)日本デビュー盤
 
中国民族音楽の好きな父の影響で、彼女も幼いころから音楽に親しむ。また歌も得意だった。 学生時代の夏休みに歌林レコードの歌のコンテストに応募し、優勝したことにより、 歌手の道を歩むことになる。 ちょうどそのころ、日本のレコード会社が台湾で新人を発掘していた。 彼女と李金鈴の二人が目にとまり、日本で歌手デビューすることになった。 蕭珠のデビュー曲「潮路」は、 残念ながらそれほど陽の目を見なかったが、 その年に、台湾で出したセルフカバー曲「真情」が大ヒットとなった。 彼女の顔立ちはやや赤くて、丸いので、 レコード会社は彼女を「蕃茄姑娘(トマト娘)」として売り出した。 日本では、努力のかいもむなしく、1年で撤退することになったが、 台湾では、1970年代、1980年代に「一簾幽夢」、「就從今夜起」、 「在夕陽裡」、「迎著風的女孩」など、 30枚のアルバムをリリースする人気歌手となった。 しかし1990年10月、彼女は12年間交際していた男性とシンガポールで結婚。 現地に定住し、芸能界を完全に引退した。
(2006年04月30日記載)
「さよなら初恋」
日本コロムビア(株)
AA-94(1974年12月)

 
リー・チンリン《李金鈴》
【本名】李月治 【出生地】台北市 【誕生日】1955年7月21日
 
「第二の誕生日」 日本コロムビア(株) P-381(1974年11月)日本デビュー盤
 
彼女はシャーリー・シャウとともに台湾からスカウトされて来た歌手である。 来日前は、「大家來唱ボポモ」(1972年)ほか3枚のアルバムを出す売れっ子歌手だった。 日本でのレコードデビューは1974年の「第二の誕生日」。 歌の上手さはもちろん日本語の発音もきれいで、爽やかな天使の歌声である。 1975年にはセカンドシングル「ある朝つけた日記から」とLP2枚を出している。 台湾に帰ってからも、引き続き何枚かのアルバムをリリースした。
(2015年10月19日記載)

 
ジェニー・フェイ《費貞綾》
【本名】張彦瓊 【出生地】台北市 【誕生日】1954年3月11日
 
「グッドバイ・ヨコハマ」 ビクターレコード SV-1230(1975年6月)日本デビュー盤
 
彼女は20歳の時、台湾の波麗唱片から「我的男朋友」でレコード・デビュー。 その後海山唱片を経て、中国電視公司に入る。 東洋のビーナスとも呼ばれ、セクシーな格好で魅力をふりまいた。
しかし彼女はその後なぜか日本に留学している。 そんなに長い期間ではなかったようだが、 その間に上記のシングル「グッドバイ・ヨコハマ」を出した。 これはメモリアル・レコードになったようで、彼女はまもなく台湾に帰って行った。
台湾では歌手として、また事業家として、活躍していたらしいが、 1981年ころ投資に失敗し、相当の負債を抱え込んだという。 その負債を返すために、再び積極的にメディアに出るようになった。
そんな苦悩の彼女は仏教に救いを求め、33歳で帰依。 39歳で出家するに至った。 一夜にしてステージの美女が仏門に入ったと、メディアを大いににぎわした。 出家したのちは、恆述法師という名前の尼さんになったが、 尼さんになってからも何かと芸能界にはよく出ているようだ。
また彼女には有名人の弟が二人いる。ゴジラのような髪型で有名な司会者の張菲と、 これまた一時期人気抜群だった歌手の費玉清である。
(2003年01月12日記載/2005年09月05日更新)

 
キャンディー・レイ《周思潔》
【本名】周麗娟 【出生地】台北市 【誕生日】1960年8月13日
 
「初恋のメルヘン」 キングレコード(株) GK-192(1978年4月)日本デビュー盤
 
レコード・ジャケットによると、彼女は「台北静修高等女子学校卒業」となっている。 1978年10月には、「そよ風の妖精」というファースト・アルバムも出した。 そのアルバム・タイトルはまさに彼女にぴったりの表現である。 彼女の日本語の発音は完璧で、はじけるような青春歌謡を歌う。爽やかで気持ちがよい。
台湾に帰ってからは、周思潔という芸名で、アルバムも出している。 また一方、事業もおこし、それが成功し、かなり蓄財をしたようだ。 しかし2001年に台北の汐止東方科学園区の大火により、彼女の事業は全て灰燼に帰してしまった。 さらに2003年には詐欺にあって多額の負債もかかえたようで、苦しい境遇となった。
(2003年01月12日記載/2004年12月25日更新)
「恋=?」
キングレコード(株)
GK-242(1978年)

 
白冰冰(パイピンピン)
【本名】白月娥 【出生地】基隆市 【誕生日】1955年6月28日
 
「カンフー・エレジー」 ワーナーパイオニア L-178W(1977年10月)日本デビュー盤
 
1973年、18歳で歌謡コンテストに出たのが芸能界入りのはじまり。 日本に来るきっかけとなったのは、1977年漫画家梶原一騎の主宰する三協映画と松竹映画の提携で、バンコクと香港を舞台にした劇映画「カラテ大戦争」が製作される際、そのヒロインに香港のオーディションで選ばれたことによる。松竹映画のプロデューサーや梶原一騎の眼に彼女の歌って、踊れて、さらにカンフー・ドラマに出演歴も多いマルチタレントぶりが認められたわけだ。彼女は来日し、その後、梶原一騎と結婚している。その最初の映画「カラテ大戦争」(1978年)では、主題歌「カンフー・エレジー」も歌い日本で女優兼歌手のデビューを果たした。その後一時期芸名をスザンナ・スーと改め、1980年の劇場用アニメ映画「あしたのジョー」の挿入歌「グッバイ・ジョー」などを歌う。 しかし梶原一騎とは性格の不一致から結婚生活も長くは続かず、別居の後、1983年正式離婚した。 その後1984年には、日本での最後のシングル「忘れないわ…」を出している。
1981年に台湾に帰った彼女は第一酒店で歌い始めたのを皮切りに本格的な歌手活動を開始。 最初のアルバム「唱抹」を始め、次々とアルバムを出すかたわら、 テレビ番組の司会やコマーシャルなどにも出演、人気を得て行った。 またこのころ日本語、北京語、台湾語で日本のカバー曲などをたくさん歌っている。 1997年愛娘の白曉燕さんが誘拐され、悲惨な結末となったが、 そんな困難も乗り越え、今尚彼女は台湾芸能界で活躍している。
(2003年01月12日記載/2018年04月04日更新)
「グッバイ・ジョー」
オレンジハウスレコード
ORF-110(1979年)
「哀しみのブルートレイン」
オレンジハウスレコード
ORF-131(1980年)
「忘れないわ…」
センチュリーレコード(株)
7AC0029(1984年)

 
マーガレット・ポー《鮑正芳》
【本名】鮑正芳 【出生地】台北市 【誕生日】1960年8月21日
 
「ラブ・ショック!!」 東芝EMI(株) TP-10501(1978年11月)日本デビュー盤
 
彼女は16歳の時、たまたま近所にあった中華テレビの訓練班(芸人養成所?)に応募し、 オーディションに受かったのが芸能界に入ったきっかけらしい。 ところが、その清純で健康的で魅力溢れる彼女が日本の芸能関係者に発掘され、 彼女は日本に来て、歌手デビューすることになった。 残念ながら、永続するには至らなかったが、笑顔の可愛いアイドル歌手として、 「ラブ・ショック!!」を含め、4枚のシングルレコードを残して、台湾に帰った。
台湾に帰ってからは、1980年「天涼好個秋」を初めとして、何枚かのアルバムを出し、 歌手活動をしていたが、23歳の時、ドラマで知り合った男優と結婚し、芸能界を引退した。 最初は幸せな結婚生活を送っていたが、やがてその彼が酒を飲むと暴力を振るうようになり、 家庭は崩壊。離婚するに至った。
(2003年01月12日記載/2005年12月14日更新)
「天使のハミング」
東芝EMI(株)
TP-10527(1979年)
「トロピカル・ハネムーン」
東芝EMI(株)
TP-10567(1979年)
「空の終列車'80」
東芝EMI(株)
TP-10642(1979年)

1980年代の歌姫たち