☆1980年代の台湾の歌姫たち☆


 
ナンシー・ルー《劉藍溪》
【本名】劉藍溪 【出生地】不明 【誕生日】1960年3月29日
 
「愛のかげろう」 (株)CBS・ソニー 07SH-1206(1983年9月)日本デビュー盤
 
彼女は16歳の時に台湾電視(テレビ局)の歌謡番組を見に行ったのだが、 人を惹きつけるものがあったのだろうか、 すぐにテレビ局のスタッフの目にとまり、そのままディレクターのもとに連れて行かれたという。 間もなく彼女はテレビの連続ドラマなどに臨時出演するようになり、 やがて主演女優として映画にも出るようになった。 また彼女の声は当時流行っていた学園フォークソングにマッチしていたので、 1977年にはアルバム「夕陽戀曲」でレコードデビューするに至った。 売れ行きは大変よかったので、その後立て続けに4枚のアルバムを出した。
こうした中で彼女は日本にも進出。1983年に「愛のかげろう」で日本デビュー。 この年にセカンドシングル「旅の続き」、そして翌1984年に3枚目の「ムーンライトシャドウ」を出した。
日本を去った後の彼女は結婚し、アメリカに渡り、現地で仏教に帰依した。 1991年には正式に出家し、道融法師を名乗っている。 アイドル歌手のジャケット写真からは想像もできない展開となった。
(2015年10月19日記載)

 
テン・リー《天李》
【本名】林雅[王旋] 【出生地】基隆市 【誕生日】1965年12月11日
 
「日本海ひとり旅」 リバスター音楽産業(株) 7RC-0074(1986年10月)日本デビュー盤
 
父親が著名な音楽家だったので、幼少から厳しい音楽特訓を受ける。 初舞台は2歳の時という。基隆のラジオ局で開催の歌番組に特別出演。 天才的なすばらしい歌声を聞かせ、居合わせた者を驚かせる。 これが彼女の歌手生活の出発点となった。 1980年には初のレコードを吹き込み、大評判となる。 その後東南アジアでのステージツアーも行っているが、 父親は彼女を日本で修業させることを希望していた。
1985年に19歳で来日、弦哲也氏に弟子入りする。 1986年には「日本海ひとり旅」で日本デビュー。 間を置かず、橋幸夫とのデュエット盤「デュエット12」も発売した。 1987年には、朝日放送系TV映画「必殺仕事人・風雲竜虎編」の挿入歌「ついて行きたい」、 翌年には「駅舎(えき)」を発売したが、残念ながら日本での活動はこれで終わる。 一方、台湾においては、1988年に「流浪的愛」、1989年に「抒情的游戲」の二枚のアルバムを リリースしている。
(2015年10月19日記載)
「ついて行きたい」
リバスター音楽産業(株)
7RC-0078(1987年)
「駅舎(えき)」
リバスター音楽産業(株)
7RC-0085(1988年)
「熱唱」
(株)フリーボード
FBCX-1009(2004年)

 
エミー・リン《李孟儒》
【本名】李惠玲 【出生地】台北県三重市 【誕生日】1965年10月10日
 
「恋上手」 クラウンレコード CWA-386(1986年11月)日本デビュー盤
 
彼女は6人兄弟の末っ子で、子供のころから歌が好きで、 8歳のころには友達とファミリーレストランなどで歌っていたという。 そこで日本の音楽関係者(大塚園一氏)に発掘され、19歳で来日したらしい。 家族ぐるみで支えてくれたその恩師にエミー・リンが「あなたにありがとう」という歌を 献げている。涙をさそう一曲である。
→(YouTube)「あなたにありがとう」
(2015年10月19日記載)

 
スーレイ《蘇
【本名】蘇瑞芬 【出生地】台北市 【誕生日】1952年6月13日
 
「砂の船」 (株)CBS・ソニー 07SH1986(1987年10月)日本デビュー盤
 
1983年、台湾、香港、シンガポール、マレーシアで空前の大ヒット曲となった「酒干賣無」により、 すっかりアジアのスーパースターとなった彼女がついに日本でもデビューするに至った。 彼女はもともとアメリカのロックに傾倒し、英語曲を得意としていた。 しかし当時はまだテレサ・テンを初めとする歌謡曲の全盛時代であったため、どうも成功せず、ようやく30歳を過ぎて、やや遅咲きだが開花した。 その後引き続き意欲的なアルバムを次々と出している。日本デビューアルバム「砂の船」はそんな彼女にぴったりのオリジナル曲ばかり。 張りのある美しい高音と彼女ならではの独特の唱法を堪能できる。なお上記のEP盤はそのアルバムからのシングルカットである。
(2003年01月12日記載)

 
愛鈴(アイリン)
【本名】黄麗瑾 【出生地】ベトナム 【誕生日】1967年1月15日
 
「夢に抱かれて」 RVC(株) RHS-308(1987年10月)日本デビュー盤
 
父親の仕事の関係で生まれたのはベトナム。そこに3歳まで住んでいたという。 その後台湾に帰国、高雄市で育った。 小学校のころ子役でよくテレビ出演もしたと言う。 高校卒業後、高雄市のレストラン・シアターで歌っていたところを日本の芸能関係者にスカウトされた。 1987年10月「夢に抱かれて」で歌手デビュー。本当に清らかな声とすばらしい歌唱力だ。 これ一枚で終りではもったいと思う。 しかしこのレコードを持って、テレビ局へ挨拶回りしていたときにTBSのプロデューサーの目にとまり、 「水戸黄門・第18部」(1988年9月12日〜)の新しいスタッフに起用されるというハッピーな展開となった。 水戸黄門は二代目西村晃で、彼女は清国使節団の侍女麗花の役で、第18部の前半17話までレギュラー出演した。 この番組をご覧になった方は多いと思う。なおタレントとしては娃娃という別の芸名も名乗っている。
(2004年11月12日記載)

 
イーリン《黄乙玲》
【本名】黄明珠 【出生地】台北縣 【誕生日】1969年9月27日
 
「想い出の河をたどれば」 クラウンレコード CWA-461(1988年4月)日本デビュー盤
 
彼女は八歳の時からずっと歌を歌って、苦しい家計を助けてきた。 1986年に台語歌壇の重鎮呉晉淮先生に弟子入りし、 翌年歌林レコードからデビューアルバム「講什麼山盟海誓」を出し、 「乙玲旋風」を巻き起こした。 日本の歌謡界もこれに注目し、1988年にクラウンレコードが彼女を日本に呼び、 イーリンはついに日本デビューすることになった。 そして1990年に出した第3枚目の「恋来恋」がオリコンチャートで 第89位まで行くという好成績をおさめたが、その後がなかった。 しかし台湾では着実に人気と実力をつけて行き、 1999年の第10回金曲奨(台湾のレコード大賞)では最優秀女性歌唱賞(台湾語部門)を獲得した。 その後も次々とヒット曲を出して、今では江惠と並ぶ台湾語歌謡界の女王として君臨している。
(2003年01月12日記載)
「ヨコハマ・わがままナイト」
クラウンレコード
CWA-515(1989年)
「恋来恋」(販促盤)
クラウンレコード
S-48(1990年)

 
ダイアー・リン《林孟瑤》
【本名】林孟瑤 【出生地】嘉義市 【誕生日】1965年05月15日
 
「演歌草」 クラウンレコード CWA-10015(1988年8月)日本デビュー盤
 
1987年8月、22歳で来日。作曲家の三島大輔に師事する。 1988年8月21日「演歌草」でデビュー。 また1989年10月〜1992年4月にかけて、ラジオ大阪の「ほろよいスタジオ」や毎日放送の「早起きサンデー」にもレギュラー出演した。 また多数のTV、ラジオ番組に出演した実績がある。 1994年12月に出したシングル「360度の想い」と「私のロンリータウン」がヒット。 翌年1995年には待望の初アルバムも発売。 そして台湾でも「私のロンリータウン」のセルフ・カバー曲「失去就失去世界」を含む 台湾語アルバムを林孟瑤の本名で出している。
また2001年5月には真唯林(マユリン)と芸名を改め、「抱炎」というシングルを出した。 現役でがんばっている美人演歌歌手に声援を送りたい。
(2003年01月12日記載)
「夢酒場」
クラウンレコード
CWA-508(1989年)
「私のロンリータウン」
日本クラウン(株)
CRDN-351(1996年)
「東京夜景」
日本クラウン(株)
CRDN-611(1996年)
「抱炎」(真唯林)
日本クラウン(株)
CRDN-728(2001年)

 
サイ・ピーホア《堂娜》
【本名】蔡碧華 【出生地】台北市 【誕生日】1966年11月12日
 
「愛よ眠れ」 (株)CBS・ソニー 07SH3104(1988年9月)日本デビュー盤
 
1988年にCBS・ソニーグループ20周年特別企画「アジア・インターナショナル歌手オーディション」が開催された。 日本、台湾、韓国、香港、中国よりそれぞれグランプリ2名選出。 その中から台湾代表のサイ・ピーホア(蔡碧華)と中国代表のウー・ショウイン(呉小芸)の2人がデビューすることとなった。 サイ・ピーホアのデビュー曲は「愛よ眠れ」、ウー・ショウインのデビュー曲は「人恋しさに」。 どちらもそのB面に相手のA面を収録している。
台湾での芸名は堂娜であるが、愛称nanaで通っている。 1986年に「告別臨海」でレコードデビューし、TVドラマの主演もしたことがあり、役者としても活躍していた。 残念ながら日本ではシングル盤一枚で撤退したが、台湾ではその後もアルバムを次々とリリースし、映画にも主演している。 そのかたわらレストランを開店するなど、事業のほうにも手を広げ、2001年の「心涼」を最後にCDは出していない。
また過去に交通事故に遇い、命に別状はなかったものの、憂鬱症や甲状腺不調などの後遺症に悩んでいた時に、 たまたま静養先のアメリカで友人に勧められてヨガを始めたのがきっかけで、すっかりヨガに傾倒。健康も回復し、 自信を持った彼女は自分の体験や学習を事業展開。すでに2冊のヨガの書籍を発刊し、ヨガ教室を運営するまでになっている。
(2003年01月12日記載/2004年09月20日更新)
「THE STARS OF ASIA 亜州之星(アジアの星)」
(株)CBS・ソニー
07SH3100(1988年)

 
氏家えりか
【本名】不詳 【出生地】不詳 【誕生日】9月26日
 
「白いウェディング・ドレス」 リバスター音産(株) RTC-0028(1989年)日本デビュー盤
 
日本に来るきっかけは、橋幸夫が台湾に行ったときに、スカウトされたという。 そのとき彼女は既に台湾でレコードも出して、歌手活動をしていた。 1989年に「白いウェディング・ドレス」で日本デビュー。 1993年には、女優志望の妹とともに茉莉花(ジャスミン)の名前で、「夜の月、昼の月」を出した。
しかし、1995年には、二人とも台湾に帰り、Candysという名前で、アルバム「著迷」で再デビューした。
(2003年01月12日記載/2005年12月14日更新)
茉莉花(ジャスミン) 夜の月、昼の月
(株)ポリスター
PSDR-4004(1993年2月)

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