☆ Profile ☆

芸 名黄思 (ホアン・スー・ティン)
本 名黄晴禎 (ホアン・チン・ツェン)
出生地台南安平
誕生日12月11日
星 座射手座


【アルバムに記された黄思
彼女の生い立ちから歌手への道や最近の芸能活動などが詳しく紹介されています。
黄思「路口随筆」:

録音から写真撮影まで、自分の"熱々"のテープを手にしました。
たくさんの経験は、どれも生まれて初めてです。
このような、よくわかりませんが、うれしい気持ちでいっぱいです。
しばらく、まだ適応できそうにありません。
しかし、私は一生もこのようなものだと思っています。
たくさん知らない事が私たちを待っていて、
経験を積み、感銘を受け、完成に至る。
少なくとも私は第一歩を踏み出しました。
気分は本当によいです。

黄思この人

幼名●美少女
趣味●イヤリング収集
星座●射手座
口癖●面倒くさいわあ!
特技●子供をあやす。
最も好きな事●写真を撮る。
最も嫌な事●バスに押し合いへし合いをする。
願い●毎回レコードがよく売れることを希望。
黄思2 「心中鎖」

「双叉路口」の発表後、黄思は、
低迷するレコード市場に突如現れて、人目を引いた。
殊に彼女は綺麗で、清純な容姿。
まさに台語歌謡界でめったにお目にかかれない美少女である。
黄思。私たちに台語歌手の
清々しく、そして明るく美しい新時代を見させてくれる。
夢を追う道すがら、黄思は、
一歩ずつ、着実に、
積極的にまた努力して、一心に、
学業と歌手を両立させる。
黄思の若い顔立ちには、
一種の非凡なきらめきがある。
最初のオリジナル・アルバム「双叉路口」(1993年3月発行)より
彼女は分れ道の前に立っているが、 見たところ、ある種のしっかりとした気構えがあるようだ。

人は台語歌について言う。歌う人はこんなに多いし、歌はどれもこんなにすばらしいと。
彼女は思う。人生には、いつも追求して行くべき自分の夢があると。
人は言う。一日の始まりは、一生がそれぞれ記された顔があるので、 慎重に選ばなくてはいけないと。
彼女は言う。灯りがともり出すころになり、自分の仕事を終えると、 泣きたいことがある反面、また笑いたい感覚があると。

黄思は世間をあっと驚かせるような飛びぬけたものはない。
しかし若さは彼女のようで、やさしさと落ち着きは彼女のようだ。
同様に夢もある。自分で完成したい未来。
だから、人生の分れ道の前に立って、 彼女は多くの大衆について行かないで、一人の平凡な道行く人になる。
道の入口に立ち、身だしなみを整えて登場する。
夢を追求する試練に耐えて、自分の気持ちを完成させる。
ちょっと笑うと、笑いの中にしばらくぶりの若さと勇敢さがある。
過去から出発、未来から帰る

私たちはみな自分が夢見る理由として何かを探している。
そしてこれらの理由は、ほとんどすべて過去の経験の中から次第に形を成すのだ。
私たちはみな歩み、移動している。
しかし前に向かって歩きたいなら、まず路上の風景を知らなければならない。
歌も同じだ。
このアルバムには、新しく創作したメロディーと
耳に慣れた、誰でも知っている名曲がそれぞれ半分ずつある。
まさに過去から始めて、まず耳を慣らし、 それから未来の可能性を大切にする。
「なつメロ・カバー」のブームなので、私たちもこのような流れを受け入れる。
しかし新鮮なよい歌もチャンスが必要だ。
このように1枚で両方を満足させる「双叉路口」。
黄思の落ち着いた立ち姿、成熟し自在にそれを伝えることが出来る。
はじける心と過去・未来の脈動を分かち合う。
2枚目のアルバム「心中鎖」(1994年発行)より
18歳、まさに夢を織り成す年頃。
若い黄思、だが光り輝く心がある。
自分の舞台で、きらめきを創造したい。

小さいときから歌の中で波打つような気持ちの起伏が好きだった。
黄思は素朴な故郷―台南にいた。
12歳で先生から歌を学んで3年ちょうどになる。
歌唱技巧が次第に熟達した後、
先生に極力推薦されて、レコード会社で歌う機会を得た。
15歳の彼女は龍千玉の「不如熟悉」を歌ったが、
歌唱技巧、感情表現など、すべて大物歌手の風格があった。
居合わせた社長は、潜在力が無限だと深く感じ入り、
会社のために歌を録音するように彼女を招いた。
北京語、台湾語、また昔の歌あるいは最近の歌に関わらず、
彼女はすべて鮮やかな表現力で驚かせた。
これにより会社の専属歌手になり、
録音室の寵児と変身することになった。
3枚目のアルバム「我甘願為吃苦」(1995年4月発行)より
甘さも苦しさもある歌謡界のでこぼこ道

小学6年生のとき、私は台南の歌唱訓練班に入りました。
その時、家庭はまあまあの状態でした。
ずっと子供のしたいことを応援してくれた父は
とても気前がよく(これは彼が自分で言っていた)
私を周正一先生にお願いしたのです。

父はいつも友達に
「うちの阿禎(私の本名は黄晴禎と言う)は
3歳で『蘭花草』を歌えたんだ!」と言っていました。

でも兄はこのように思っていたかどうか?
彼は私が歌を歌うと、お経のようだと思っていました。
(あの時葬儀場がとても近くにあったので)

私が初めてお小遣いをもらった歌は江宸フ「著忍耐」です。
江宸フ「著忍耐」を歌った場所は
私の家の客間でした、一人のおじさんが 10元くれました。

それから、訓練班で歌を学んだ後に
やっと歌を歌うということは想像以上に難しいものだとわかりました。
発声、息継ぎ、読譜、転音……
こんな単調な課程が4年続きました。

中学3年生の時、父の建築の仕事がうまく行かなくなり、
私の補習費もストップしました。
でも一心一意、やめたくなかったので
ひとつの方法を考え出しました。
朝の食事代と小遣いを節約して、
一週間の三つの授業を、特別コースをお願いして、一つの授業に縮めてもらいました。

もともと歌うことを勉強したかっただけで、
よもやスター歌手になることなんか予想していなかった私も
すぐその年に、周正一先生の紹介で、
今の呉東龍社長と契約することになりました。

私はこのニュースを
まさにどん底期の父に知らせた時に
彼はあの厚くて大きい手を私に伸ばして
「おめでとう!」と言ったことをまだ覚えています。

人生は私が歩いてきた道のようです。
甘かったり、苦しかったり、
苦しい境遇だったりしても、希望を抱いています。
一生の夢のために「甘い」苦しみを味わう

一方で夜間高校で勉強し、一方で歌を歌っていた4年の間に
私は全部で30枚近くのB版のアルバムを吹き込んだ。
400曲近くの歌になる。
学友は私に対して「口水歌の女王」だと言う。
(「口水」はあまり上品ではないが、でも女王はまんざらでもない)
夜間学校の学友は、昼間の職業や年齢が
全日制に比べて、複雑なことが多い。
ただしみんな仕事を持ちながらの学生の身分なので、
学校で得るものはとても大切にする。

異郷から来て、台北の工場で働く学友のように、 独りで工場に寄宿して、夜、学校に行って、 さらに固定的に家に仕送りしなければならない……
退役の後にやっと来て学び続ける者もいる。
独立して子供を扶養し、昼間2つの職をかけもちの片親ママ……

私は思う。これはみな一人の「学生」の夢を成就させるためである。
すべての出費は、辛さに耐えるものだとは思わない。
私もそうではない。
結局自分の一生の旅の中で、
一人の永遠に満たされない学生になりたい。
楽しさがわかり、苦しさもわかると、
得るものは明白なので、出費をいとわない。
「等無來愛阮」(1999年1月発行)より。オランダにMTV撮りに
12月17日 台湾時間 PM8:35
ひっそりと寂しく2年間アルバムを出していなかったが、 ついにプレッシャーと不安な落着かない気持ちで、オランダに行く飛行機に搭乗した。
飛行機の中でオランダの景色と撮影するMTVの様々な過程などを思い描きながら考えていたら私は寝てしまった。

12月18日 オランダ現地時間 AM6:30
オランダの空港を歩き出すと、一目で一面の枯れた木とほこりかすむ空が見えた。
突然吹いて来た身にしみる寒風。
雪は降っていないけれど、私にとっては更に一種の感傷的な雰囲気となった。

12月19日 オランダ現地時間 AM8:30
現在、午前8:30。でもまだオランダの空模様は薄暗い。
私たちは早起きして夜明け前の景色を見た。今の温度は摂氏10度。
とても寒いけれど、MTVの映像のために私は薄い上着を着る。
心の中ではずっと「私はとても暑い。私はとても暑い」と自分に言い聞かせる。
でもやはり監督やスタッフ、彼らが着ている大きな外套がとてもうらやましい。
今日監督が彼のオランダの友達に頼んで、私のMTVの中の男性の相手役になってもらった。
劇のストーリーのために私はこの会った大柄な男性と必ず抱擁しなければならない。
保守的な私にとって、やはり本当にちょっとはずかしい。
しかしそれでもオランダの友達CASさんに助けてもらって、とても感謝しています。

12月20日 オランダ現地時間AM10:50
私たちは歩いて駅の近くに来た。ここは人の波が激しくごった返している。 しかし通りのそばには枯れた樹木があり、また複雑に電車が交叉している。
その上私の撮影するメインの歌は、私の気持ちをある瞬間に段々悲しくさせ始め、 歌いながら、私は突然泣いてしまった。
天気があまりに寒かったからか、それとも歌詞に感動したのか私はわからない。

12月21日 オランダ現地時間PM9:30
ぶっ通し4日働いて、夕飯を食べた時、本当に台湾の[虫可]仔麺線が懐かしく、ご飯を食べ終わった。
監督が私たちに時間をくれ、私たちを休ませた。
私とスタッフたちは現地の有名な赤線区域をぶらぶらした。
ここのショーウインドーの若い女性は本当にきれいだ。私でさえそう思い、更によく見る。
照明係の人が私に「もし私が歌を歌わなくなったら、
オランダに来てショーウインドーの若い女性にでもなったら」と冗談を言う。
彼は手伝って明かりで照らした。

12月22日 オランダ現地時間PM7:00
何日か働いて、心身ともへとへとだが、ついに台湾に帰る。
疲れたけれども、しかしとっても楽しかった。
何日も苦労したが、それはオランダの最も美しいシーンを台湾の友達に献呈したいためだ。
ただし短い滞在ではあったが、オランダの美しさは私に深い印象を残させた。
もし機会があれば、またオランダに旅行がしたいと思う。
「感動」(2002年9月発行)より。新しい挑戦
芸能界に入ってこの12年来、意味するところは私が音楽と豪記レコードの堅実さに対してこだわりがあることです。
美しい夢は現実のものとなります。このアルバムは私が歌の仕事についている中で最大の突破と挑戦です。
このアルバムを準備し始めてから、歌を収録するため、製作陣の方々との間にいろいろな意見がありました。
同様にどのようにアレンジしようかと、企画宣伝スタッフたちと多くの話し合いがありました。
でも私たちはみんな一つの共通目標がありました。それはつまりこのアルバムを更に完璧にさせるということです。
今となって、心の中に感じられるものは特に多い。
私の気持ちが最も落ち込んでいる時に、家族と友達は私の最大の精神的支柱でした。JasmineやNathan....たちのように。
あなた方がいつも絶えず私のそばで私を励ましてくれたこと、私に自信をくれたことに対してお礼を言います。
もちろん最も重要なのは私の生涯の中で力になってくれている人に感謝することです。
つまり私の社長<呉東龍さん>あなたにお礼を言います。ずっと私の音楽に対する理想を応援してくれました。
このアルバムは私に更に大きく発展する空間をくれました。Simonがまだいる。黒人の子がこの時間に。
私たちは多くの挫折と困難に出会ったけれども、努力により、これらの問題もすべて――克服されました。
私はこれらの事も私たちをともに大いに成長させた事と思う!
実に感謝する人は多い。私が会社に入ってから、ずっと私の宣伝の面倒を見てくれた<秀雲ママさん>
いつも私が困っている時、あなたは必ず「水火も厭わず」私を助けて問題を解決してくれました。感激しています。
まだあります。このアルバムの中で、音楽以外にも、企画・宣伝上、戦えばますます勇敢になる兄弟仲間がいる。
およびこのアルバムの上で私を助けて、私といっしょに努力した仕事の仲間達、あなたがたにお礼を言います。
実際、もし感謝するならば、二言三言で形容することはできません。
最も重要なのは、私は仕事の上でさらに大きい努力をすることです。
もっと良い表現があるので、あなたがたに答えます。そして数年来ずっと私を応援してくれてきた歌謡曲ファンの友人たちに、
Thank you so much,Sheryl
「問情」(2004年12月発行)より。チベットに再び
飛行機がラサ空港に降下して行く瞬間に、突然心の中に何とも言い表せない感動が湧き始める。
「チベット〜私は帰って来たわよ」とこらえ切れずに内心大声で喚声をあげた。
というのは、前回のアルバム「情縁」で、私はチベットに福を祈って願をかけに来たから。
本当に〜御仏は守ってくださった。アルバムは沢山売れて、私に再びチベットに戻ってお礼参りをさせる機会をくれた。
しかも「情問」全部のアルバムのMVも撮影する。

私は今回の撮影過程はきっととても苦しくなることを知っていた。
途中の揺れるガタガタ道のほかに、もっと大変なのが必ず高山病を克服しなければならないこと。
仕事仲間が酸欠のため頭が痛くなるので、必ず酸素ボンベを持って来て、私のためにMVの撮影するのを見て、
私は心の中で本当にとても感激した。
私は黙々と菩薩の加護を切に願うことしかできなかった。
どうか私たちを無事にお守りください。

ポタラ宮の前に立ち、遠くの山の峰を眺めると、ひらひらと白い雪が舞っている。
多くのチベット族も見えた。どれほど遠くの地方から来たのかわからない。長い道のりを歩いて来ている。
大昭寺の前に着いて、五体を地面に伏し、敬虔な礼拝をする。
更にチベット族の人々が手をつなぎ輪になって、口の中で「on-ma-ni-be-me-hong」と唱え、
ひっきりなしに回っているのが見えた。
あの神聖な瞬間、私はチベットの美、およびチベット伝来の仏教の神秘的なベールだけが必要だと思った。
台湾に帰り、歌謡曲ファンの友達と分かち合って、
私はまったく辛いとは思わなかった。
私の「心霊音楽」とチベットの美しい風光が歌謡曲ファンの友達に
この雑然とした俗世の中で自分の心に極楽浄土を探し当てることができることをひたすら願って。

祈願〜吉祥
2004.11月

(2005年05月22日 作成)
(2014年11月19日 更新)