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野球交流

No.3679 投稿者:ふき  投稿日:2017年03月27日(月) 23時56分22秒

梧棲さん、こんばんは。
私は、あまり本を読まず、ドラマや映画もほとんど見ないという、どうしようもない人間ですが、映画『KANO』はドキュメントフィルムのようなので、そのうち必ず見てみたいと思っています。
それにしても映画『KANO』をきっかけに始まった日台の戦前の学校の後身同士の交流には胸が熱くなります。中京大と嘉義大の親善試合のことですが、このような交流がいつまでも続くことを願います。映画『多桑』も台湾人の心の中にある日本というものをよく表現していました。洪一峰一家の生涯を描いた『阿爸Abba』もおそらくDVDが出ていると思いますので、台湾に行った際は探してみることにします。
ライオンズの選手の「今久留主:いまくるす」という苗字はなんとなく原住民的な名前ですね。

嘉義農林

No.3678 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年03月26日(日) 12時09分48秒

 ふきさん、皆さん こんにちは。

 現在春の選抜高校野球が甲子園で開催されていますね。
私は高校野球や高校駅伝では郷土意識が出て、生れてから23歳まで暮らした福岡県と就職してから現在まで暮らしている神奈川県の高校を応援してしまいます。

今年の2月と3月に2015年に台湾で大ヒットした映画『KANO』に影響されたのか日本の大学野球チームが台湾の嘉義大学や他の大学の野球チームと交流し始めたニュースを読みました。
映画『KANO』は現在の夏の高校野球甲子園大会の前身である昭和6年(1931年)の夏の全国中等学校野球甲子園大会で台湾の嘉義農林中学が決勝まで勝ち進み、中京商業に敗れて準優勝した時の物語です。
嘉義農林を略して嘉農(KANO)と呼ばれていたので映画の題名も『KANO』となっています。

【Yahoo台湾ニュース】
『「KANO」の光景再現 中京大と嘉義大、再び親善試合』  2017.02.21(嘉義 中央社)
中京大(愛知県)は20日、嘉義大(嘉義市)と南部・嘉義で親善試合を行った。両大は台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」をきっかけに、2015年12月に学術交流協定を締結。硬式野球部同士の交流を通じ、親善を深める。
中京大学附属中京高校は1931年、前身の中京商業学校時代に嘉義大の前身、嘉義農林学校の野球部と夏の甲子園で決勝を戦っていた。2015年に日本でも公開された「KANO」では当時の熱闘が描かれている。昨年8月には嘉義大硬式野球部が訪日し、両大の85年ぶりの対戦が実現していた。
嘉義大の邱義源学長は、同大野球部が昨年中京大と一戦を交えて以降、野球に取り組む日本側の真剣な姿勢に感化され、以前より積極的に練習に励むようになったエピソードを明かし、親善試合によって良い効果が生まれていることを述べた。
この日の試合は3−3の同点で迎えた九回裏、嘉義大が追加点を奪い、4−3で勝利した。
試合は21、23日にも行われる。   (黄国芳/編集:名切千絵)

『早大野球部、先輩の“KANO”エースと対面』    2017-03-03(嘉義 中央社)
台湾遠征中の早稲田大学野球部は3日、南部・嘉義市を訪問し、1931(昭和6)年夏の甲子園で嘉義農林学校(嘉農、現・嘉義大学)のエースとして活躍し、のちに早大に留学した呉明捷投手の彫像と記念撮影を行った。
“先輩”の投球フォームを再現した躍動感ある彫像を前に28人の部員からは感嘆の声が上がった。
同大野球部は台湾各地の4大学との対戦のために訪台。2日までに台南、高雄で2試合を終え、4日と5日にはそれぞれ台中と台北で試合を行う。
野球部一行はこの日、嘉義大学にも足を運び、嘉農を甲子園出場に導いた日本人監督、近藤兵太郎氏の銅像や甲子園準優勝記念碑などを見物した。   (江俊亮/編集:名切千絵)

私がプロ野球に関心を持つようになったのは1950年代で、やがて地元の「西鉄ライオンズ」が大下、中西、豊田などの強打者と稲尾、島原などの好投手の活躍で強くなって行く時代でした。
ライオンズの選手の中に「今久留主:いまくるす」という日本人としては珍しい苗字の捕手がおり、台湾の嘉義農林出身ということも知りました。
また当時の対戦チームの「大毎オリオンズ」には全盛期は過ぎていましたが呉昌征という選手がいて彼も嘉義農林出身の台湾人だということまでは知っていました。私は当時はそれ以上の関心は持ちませんでした。

 私が1987年から台湾に行くようになって数年後には日本語世代の台湾人と知り合うようになりました。
その中で野球に関心のある男性達は現在の夏の甲子園での全国高等学校野球大会の前身である、昭和6年の第17回全国中等学校野球大会で台湾の嘉義農林が準優勝した時の話を皆が誇らしげに語られるので私は久しぶりに嘉義農林という校名を意識するようになりました。
彼等の中には昭和6年当時はまだ幼児であったり、生れていなかった者もいるのに嘉義農林の活躍を誇らしく語っていました。
この時の物語が2015年に台湾で『KANO(副題:海の向こうの甲子園)』という題名で映画化され大ヒットしました。
台湾で制作した映画なのに全編ほぼ日本語のセリフで、日本語が分からない台湾人は中国語字幕で見なければならないというのに戦後最大のヒットとなり、今では嘉義にはこの時の投手が投球している像もあります。

 日本のプロ野球でも西武の郭泰源、中日の郭源治(原住民出身)が大活躍し、その後も絶えず台湾出身の選手がどこかの球団に在籍するようになりました。
彼等は皆外国人枠扱いでしたが、ホームラン王になったことがある陳大豊は日本の大学を卒業してから中日に入団したので日本人選手と同じ扱いで外国人枠から免除され、陽岱鋼(原住民出身)は日本の高校を卒業してから日本ハムに入団したので彼も外国人枠から免除され、FAで今年から巨人の選手になりました。
最初に名前を挙げた嘉義農林出身の呉昌征はこれら台湾出身の選手が日本のプロ野球に入る道を切り開いたパイオニアということになります。

 私が住んでいる人口1万7千人の田舎町の図書館に【高砂族に捧げる 鈴木明(中央公論社 昭和51年8月)】という本があるのを19年前に見つけました。
この本の第七章に昭和10年の21回甲子園大会の準決勝で嘉義農林が松山商業に敗れた時の話が詳しく書かれており、また台湾の友人達が最も誇らしく感じている、映画『KANO』になった昭和6年の17回大会決勝で中京商業に敗れて準優勝した時の話も書かれていることを知りました;

 昭和6年8月21日、第17回「夏の甲子園大会」で台湾代表「嘉義農林」が、決勝戦で「中京商業」に敗れたことをご記憶の方がいるだろうか。長い「甲子園」の歴史の中で、植民地のチームが決勝にまで進出した記録は、大正15年の大連商業を除いては、この時しかない。この時のナインの名前を、ここで記させて頂きたい。
7 平野
8 蘇
6 上松
1 呉
2 東
5 真山
3 小里
4 川原
9 福島
 一番平野は本名ポロ、三番上松は本名アジワツ、五番東は本名ラワイ、六番真山は本名マヤウ、すべてアミ族である。ここでいう「東」は僕が台北で出会った「東さん」とは別人である。
また、ここに投手で四番呉とあるのは、例の長嶋に東京六大学ホームラン記録を破られた「呉明捷」の方である。
日本の野球界は、「呉」という名前の二人の名選手を出している。一人は呉明捷、そして一人は呉昌征(呉波)である。共に嘉義農林の出身で、
呉明捷は昭和8年、早稲田大学に進み、宮武と並んで通算7本のホームランを打って、六大学野球のヒーローとなった。プロ野球がなかったこの時代に、彼の記録と人気がどのぐらいのものであったかは、いまのわれわれの感覚で説明することは困難だろう。彼の記録は、実にそれから20年後、昭和32年、長嶋の出現によって、やっと破られることになる。
 もう一人の「呉昌征」が、昭和10年8月20日の試合に嘉義農林チームで二番打者として登場する「俊足の呉」である。彼はそれから2年後の昭和12年、東京巨人軍に入団し、二度首位打者となった。
走れば必ずセーフであり、その上強肩、最高殊勲選手にも選ばれ、戦後(21年)は突如投手に転向して14勝6敗の成績を残し、ファンを唖然とさせた。プロ野球実働20年の記録は、現南海の野村が現れるまで、誰にも破られなかった。


そして、この本には西鉄の今久留主選手と大毎オリオンズの呉昌征選手は21回大会に出場していたことも書かれていました。
1976年(昭和51年)の出版ですから、この本は私が台湾に行き始める11年前から町の図書館にあり、私はこの本を出版から22年後に見つけたことになります。
本のタイトルにある通り原住民にスポットを当てて書かれた本です。

日本語世代の友人達(全て河洛人)にこの本の話をすると野球に関心のある方だけでなく、これまで野球の話をしなかった方も、嘉義農林の活躍は誇らしい語り草になっているようで、嘉義農林のことが書かれている章だけ送ってくれと言われるので私はこの章だけはデータファイル保存しています。
日本語世代の男性友人の多くが既に他界し、最近はこの話を印刷して送ることもなくなりました。

 日本語世代の男性には戦後も夏の甲子園の全国高校野球を楽しみに見ている方が結構いました。
後に読売巨人軍、NYヤンキースで活躍した、あの松井秀喜選手が夏の甲子園大会で5連続敬遠されたことに対して日語世代の友人達は口々に「今の日本人には大和魂はないのか?!日本教育を受けた我々には勝つために5連続敬遠するという“大和魂”のない戦い方を選択したことが理解できない」と私に不満を語っていたことを思い出します。

 台湾の新聞には日本のプロ野球の試合結果も載っています。日本ハムは「日本火腿」、ソフトバンクは「軟体銀行」と表記されています。
私の定宿のホテルには日本の新聞は1日遅れしかないので、前夜にNHKのスポーツニュースを見られなかった時は台湾の新聞で日本のプロ野球の結果を見ることにしています。


洪一峰のヒストリア

No.3677 投稿者:ふき  投稿日:2017年03月26日(日) 00時54分17秒

梧棲さん、こんばんは。
さっそくご確認いただき、ありがとうございます。
芸人である洪一峰でさえ、訪日にはいろいろ苦労されています。ましてや家庭を守る妻の場合は、たとえ当時日本に住んでいたとしても、出産だけは故郷台湾に帰ってしたいと思うのが人情なので、やはり洪榮宏の日本出生には違和感があります。

さて、洪一峰一家のヒストリアともいうべき映画が2011年に作られていました。上映はその年の10月のようで、監督は洪一峰の三男洪榮良です。映画は見ていないので、何とも言えませんが、詳細な解説がネットにあります。
洪榮宏のお母さんである羅玉に関しても説明があり、当時36歳の洪一峰と実家のある屏東で出会ったこと。一年後に結婚し、洪一峰の音楽教室のある台南で暮らしたことなど。さらに一年後に洪榮宏が生まれたことなどが記されていますが、肝心の出生地は書かれていません。しかし台湾の常識からすれば、やはり回娘家の屏東と考えるのが妥当ではないかと私は思います。
羅玉は洪榮宏の次に娘の洪鶯娥、次男洪敬堯(後に編曲家)、三男洪榮良(後に番組プロデューサー)の三男一女を得て、円満な家庭を築くはずでした。しかし洪一峰に歌を習いに来ていた17歳の少女愛玲(後の妻)がこの一家の運命を大きく変えました。なんと洪一峰が日本で部屋を借り、愛玲と暮らしているという情報が羅玉に届いたのは、その7年後のことです。
このころ洪榮宏も日本に留学中でしたが、羅玉は幼い子らを連れて彼女の母親の実家の苗栗に出てしまいました。洪榮宏も留学を切り上げ、急きょ母の許へ帰りました。その後、羅玉は洪一峰と離婚しています。洪榮宏は12歳くらいでしたが、レストランで歌って、日銭を稼いだり、その後レコードを出したりして、家計を助けたということです。

それから30年以上が過ぎ、愛憎も風化したのでしょうか。羅玉は洪一峰と3番目の妻愛玲からの謝罪を受け入れ、和解が成立したということです。洪一峰が亡くなる1年前のことでした。よかったですね。

参考サイト↓
《阿爸Abba》百萬個掌聲 千萬的感動(16)
http://abbamovie.blogspot.jp/2012/07/blog-post_4882.html#!/2012/07/blog-post_4882.html

洪榮宏の出生地

No.3676 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年03月25日(土) 16時59分06秒

ふきさん、
 洪榮宏の出生地は洪一峰さんがテレビで直接語ったのではありません。
洪榮宏を紹介している歌詞検索サイトに載っていたのと台湾の友人達から聞いた話です。

洪榮宏の出生地

No.3675 投稿者:ふき  投稿日:2017年03月23日(木) 22時26分49秒

梧棲さん、みなさん こんばんは。
 洪一峰が活躍した1960年代は、歌手にとって、けっして活動しやすい時代ではありませんでした。国民党政府により、映画や歌謡曲に様々な制約が加えられ、さらに台湾語歌謡の場合はテレビで一日2曲までという規則があり、失業する歌手が多かったと思います。洪一峰は才能に恵まれ、歌舞団を立ち上げたり、映画に出演したりと、それなりに頑張っていたと思います。来日したのも、余裕からというよりは、「少しでも稼がなくては」という現実的な理由によるものと思われます。しかも下記の川瀬さんのインタビューによると「七、八回ぐらい台湾代表の歌手として行きました。当時は、ビザを取るのが大変でした。半年ごとに一度台湾へ帰って、またすぐに日本に行きました。」というように、日本に住んでいたというよりは、仕事のために日本と台湾を往来していた感じです。それから考えると洪一峰夫妻がそのころ日本に滞在していたので、「洪榮宏が東京で生まれた」というのは疑問が残ります。1963年というと、洪一峰は映画「舊情綿綿」の続編「何時再相逢」の発表もあり、けっこう忙しかったはず。しかも洪榮宏のお母さん(2番目の妻)は敬虔なクリスチャンで、かなりプライドが高く、日本に来たという裏付けは取れませんでした。台湾のウィキペディアには、洪榮宏の出生地として「日本東京都」と出ています。ほかにも「日本東京都」と書いてあるサイトはたくさんありますが、どれもウィキペディアのコピーのようです。ほかの出生地としては、ネットを探すと、「屏東で生まれた洪榮宏…」とする公視(公共電視)の番組説明がありましたので、一応下にアドレスを書いておきます。あとさらに「台南出生」説があるようです。台南はなんと言っても父洪一峰の故郷なので、可能性はありますが、今のところ断定できるだけの根拠がありません。梧棲さんが書かれている「東京都出生」は洪一峰が自ら語ったことなのでしょうか。『台湾歌謡輯』の番組の中でそこまで言及していれば、間違いはないと思いますが…。

参考資料↓
http://blogs.yahoo.co.jp/toyo2012s/32221447.html
親子二代にわたる歌星 洪一峰 インタビュアー 川瀬健一

公視表演廳--洪榮宏台語金曲演唱會
http://web.pts.org.tw/php/mealc/main.php?XMAENO=1431

洪一峰

No.3674 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年03月22日(水) 13時09分21秒

Tecoさん、皆さん こんにちは。

 Tecoさんは淡水碼頭での「のど自慢大会」で『淡水暮色』を歌われたのですね。
審査員の洪一峰さんは自分のヒット曲を日本人が歌ってくれて嬉しかったことでしょう。

 洪一峰さんは今から10数年前の公視テレビの『台湾歌謡輯』で彼の経歴を語っていました。
台湾風のかなり危険な花火合戦で有名な台南塩水出身で、少年時代は各地を放浪し16歳の時に淡水碼頭で「流し」のような暮らしをしていたそうです。1961年に洪一峰歌舞団を立ち上げたそうです。
1962年に東京の東宝劇場で公演した時の思い出も語っておられました。
息子の洪榮宏は1963年に東京都で生まれていますから洪一峰さん夫妻が日本滞在中に生まれた子供ということになります。
 
 私は洪一峰さんの歌の中では『舊情綿綿』と『可憐戀花再會』を時々歌います。
日本語世代の男性友人の一人が、互いに好き合っていたのに家庭の事情で結婚できなかったが晩年になった今では昔の恋人が無性に恋しくて『舊情綿綿』を何度も聞いていると私に告げ、彼とカラオケに行った時は二人で交互にこの歌を歌ったものでした。私より11歳上の方だったので既に故人となっています。
私には『舊情綿綿』はこの友人を思い出す歌になっています。

哀愁的風雨橋

No.3673 投稿者:ふき  投稿日:2017年03月19日(日) 21時21分38秒

tecoさん、みなさん、こんにちは。
洪榮宏も歌っているこの歌はもともと日本曲ということなので、昔調べたことがあります。台湾側の情報では三橋美智也の「ふるさと列車」ということですが、日本側の資料に見つかりません。台湾にはこういう身元不詳の歌がけっこうあります。
ところで洪榮宏の声は特に美声であるとかということはないのですが、聞いていて、安定感があります。tecoさんがおっしゃるように節回しもしっかりしていて、やはりプリンスの貫禄のようなものが感じられますね。
私も洪榮宏の歌は大好きで、台湾ではもちろんのこと、日本のカラオケボックスでもよく歌うので、約20曲のレパートリーをなんとか維持しています。歌はしばらく歌わないと、まず頭が出て来なくなります。そのうちサビの部分以外は全部忘れてしまうという結果になりますので、メンテナンス(カラオケ通い)はたいへん重要です(笑)。
tecoさんは台南にお仕事ですか。私も2月に台湾に行こうと思っていたのですが、親戚の結婚式があり、流れました。先週は父の七回忌があったため、どこへも出られず、来月やっと旅行に行けそうです。とりあえず4月初旬にエジプトに行きます。そのあと周辺国を回り、イタリアから帰路につきますが、途中台湾にも寄りたいと思っています。おそらく帰国は6月中旬ころでしょうか。
tecoさんは生前の洪一峰さんから、褒められたなんて、光栄至極ですね。台湾の寶島歌王のご冥福を祈ります。

こんにちは

No.3672 投稿者:teco  投稿日:2017年03月18日(土) 15時32分41秒

ふきさん、梧棲さん、みなさんこんにちは。

森進一さんも五木ひろしさんも大好きな歌手のひとりです。
洪栄宏さんの節回しのうまさは日本人歌手でもそうはいないと思います。彼の歌った哀愁的鳳凰橋は特に好きで、ギターやマンドリンでよく弾いています。
淡水のフィッシャーマンズワーフができたときに淡水暮色を歌うコンテストがあり、私も友人にそそのかされて参加したことがあります。
私のほかに日本人も何人か参加していたようでしたが、審査委員長の洪一峰さんから、「日本の方ですね。とても上手ですね」と褒められました。
えらい昔の話ですが、楽しい思い出です。
25日から29日まで台南に行ってきます。
今度は仕事なので遊ぶ暇はあまりなさそうですが、ふた月も台湾の空気を吸わないと恋しくなってしまいまして、あちらの空気をしっかり吸って来ようと思っています。

洪榮宏

No.3671 投稿者:ふき  投稿日:2017年03月18日(土) 00時00分24秒

梧棲さん、みなさん。こんばんは。
洪榮宏のお父さんは「思慕的人」や「淡水暮色」で有名な洪一峰ですが、彼自身日本で一時期修業した経験もあることから、息子の洪榮宏にも日本で歌の勉強をさせようと考えたことは当然です。
洪榮宏は9歳の時に最初のレコード「孤兒涙」を出していますが、そのすぐ後、東京港区で音楽教室をやっている知り合いの女性に預けられました。彼はまだ小学生だったので、昼は東京中華学校に通っていたということです。もともと才能があるので、レッスンや日本語の吸収はよかったと思います。彼の日本語の歌を聞くと、わかりますが、発音が完璧です。特に台湾人の苦手な「ダ行」が正確で、たとえば「大丈夫」は一般の台湾人のように「ライジョーブ」とはならず、ちゃんと「ダイジョーブ」です(笑)。
ただ、残念ながら留学期間が一年余りだったので、日本語会話の完全習得には至らず、その後25年ぶりに先生と再会しても、すんなり日本語が出て来ませんでした。しかし歌は以前にもまして磨きがかかり、先生としてはそのほうに満足して、日本に帰られたのではないでしょうか。
五木ひろしの次の台湾公演では、ぜひ洪榮宏とも共演してもらいたいですね。大成功間違いなしです。

五木ひろしと洪榮宏

No.3670 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年03月16日(木) 13時52分36秒

ふきさん、皆さん 今日は。

 五木ひろしの歌唱力は今も衰えませんね。
 番組の題名は忘れましたがNHKテレビが月に1回くらい放送している五木ひろしの歌の教室の番組を楽しく見ています。
いろんなジャンルの音楽への関心も高く、日本歌謡史の彼なりの解説を聞くのも楽しみです。

 青山や謝雷が歌った北京語版の「夜空」は今でも台湾のカラオケで歌う人は多いですね。意外と女性客の方がよく歌っています。
 洪榮宏が歌った台湾語版の「夜空」は私が行く台北と台中のカラオケにはもうソフトがなくて歌えません。
私は王識賢が歌った台湾語版の「情難忘」を歌っています。 

 私は台北公演の台湾人ゲストはひょっとしたら洪榮宏ではないかと期待していました。
彼は父親の教育方針で音楽修業も兼ねて長期間日本に留学していたので日本語も達者で演歌の歌唱法も熟知していますから。
同じ歌を五木ひろしが北京語で歌い洪榮宏が日本語で歌うシーンを想像していました。
 私が台湾で見ている歌番組では日本原曲の台湾語版をゲスト歌手が一番を
台湾語で歌って洪榮宏が二番を日本語で歌うというパターンが結構多いです。

 五木ひろしがギターを洪榮宏がピアノで演奏するのも想像していました。

五木ひろし熱唱

No.3669 投稿者:ふき  投稿日:2017年03月13日(月) 23時15分45秒

梧棲さん、こんばんは。
数多ある歌手の中には手抜きする歌手も案外います。特に年を取ってくると、高音が出しにくくなるので、それをなんとか誤魔化そうとしたりしますが、五木ひろしの歌を聞くと、全然そんなのはありません。いまだに往年の五木演歌を守っていますね。
さて、五木ひろしの歌の中で一番台湾で有名なのはやはり「夜空」でしょうか。日本語そのままのタイトル「夜空」で北京語版、台湾語版の両方があるくらいです。 北京語版の「夜空」は青山がファーストカバーしました。青山の歌はどれもすがすがしく、演歌色ゼロですが、この歌もまさにそうです。台湾語版の「夜空」は洪榮宏の歌を聞いてみました。洪榮宏は五木ひろしの声質に似て、コブシも効いていて、まさに演歌そのものです。もっと新しい王識賢のカバー「情難忘」もやはり演歌色があります。概して台語歌手の唱法は日本演歌に近い感じがします。


五木ひろし演唱會

No.3668 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年03月12日(日) 15時15分00秒

ふきさん、
 五木ひろしは25曲も歌ったのですね。プロ歌手は喉のスタミナもすごいと敬服します。
私は台湾のカラオケが空いていた時に14曲歌ったら翌日は喉がおかしくて、もうカラオケに行く気にもなりませんでした。

 五木ひろしは持ち歌の「夜空」の北京語版でも歌うのかと予想していましたが「月亮代表我的心」を中国語で歌ったのですね。

 公演を見に行った台中の友人夫婦から今週くらいに感想を手紙で知らせてくるのではないかと期待しています。

五木ひろし演唱會

No.3667 投稿者:ふき  投稿日:2017年03月11日(土) 00時49分28秒

みなさん、こんばんは。
梧棲さんのお知らせのとおり、五木ひろしが先月末に台北でコンサートを開催しました。
場所は台北101のすぐ近くの「台北國際會議中心」で、69歳の五木ひろしはここで全25曲を歌ったそうですが、まだまだ現役バリバリですね。台湾公演は3回目なので、「台湾は第二のふるさとだ」と述べたりして、台湾ファンへのリップサービスも完全です。
昔テレサテンが歌ってヒットした名曲「月亮代表我的心」を中国語で歌い、好評だったようですが、この選曲もなかなかいいと思います。
そしてゲスト出演は翁立友(オンリーユー)で、五木と一緒に「よこはま・たそがれ」を歌ったそうです。翁立友は三立歌唱比賽出身ですが、今はノリノリの実力派歌手です。ゲストに呼ばれた際、「非常に光栄です。私が19歳で歌手の道を志していた時、五木先生のカセットは私の日本語の歌の教科書でした。今、こうして先生と同じステージに立てるなんて、美夢成真(夢みたいです)!」と喜んでいたそうです。

森進一

No.3666 投稿者:ふき  投稿日:2017年03月03日(金) 23時49分33秒

梧棲さん、こんばんは。
まめにニュースをチェックされていますね。ありがとうございます。日本人歌手の台北公演はままありますが、地方公演というのはほとんど聞きません。それも高雄のような大都市ではなく、花蓮で最初の公演をやるとは、森進一もすごい。もっとも台北などより案外地方都市のほうが演歌ファンは多いかも知れません。台湾のお年寄りはリッチで、しかも暇があるので、これは成功すると思います。
ところで、森進一といえば、森昌子が思い起こされます。おしどり夫婦などといわれていましたが、性格はだいぶ異なっていたようで、結局離婚してしまいました。私は首を絞められたような森進一の声(失礼!)とは違い、演歌歌手らしからぬ天使のように澄んだ森昌子の歌が大好きで、コンサートにも出かけたことがあります。二人はどちらもいま現役で歌っていますが、これからも頑張ってほしいと思います。
台湾は現在水不足なんですね。でも心配ありません。3月〜4月の降水量は日本よりもはるかに多く、ダムの水位はすぐ元にもどることでしょう。日本や台湾は世界の中でも水に恵まれた国と言っても過言ではありません。

今度は森進一が台湾公演

No.3665 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年03月02日(木) 15時39分17秒

ふきさん、皆さん こんにちは。
 五木ひろしの台湾公演が土、日ではなくて2月27日(月)、28日(火)に行なわれるなんて不思議だと思っていたら台湾在住の日本人のブログに2月18日(土)に出勤・登校して2月27日を振替え休日とし、2月25日から2月28日の和平記念日の祝日まで4連休になっていると書かれており、合点が行きました。

 今度は森進一が4月29日に花蓮で、そして5月1日に台北で公演するニュースが載っていました。
花蓮のような小都市で公演するのは珍しいのではないかと思いますが、森進一自身も観光したいようです。

 今年に入って台湾は少雨で水不足が懸念されていましたが、新北・新竹・桃園では3月1日から第一段階の給水制限が始まったようです。

【Yahoo台湾ニュース】
『森進一、初の花蓮公演を4月末に開催 台湾でのコンサートは4度目』  2017.02.22(台北 中央社)
歌手の森進一が4月29日と5月1日、4度目の台湾公演を開催する。今回は台北のほか、初めて東部・花蓮も回る。森は、花蓮でステージに立ち、東部在住のファンに感謝を示せることは、新鮮で楽しみだとコメントしている。
森は2010年に台湾公演を初開催。その後、2013年、2015年にもコンサートを開き、これまでには台北のほか、台中や台南も巡った。
今回の花蓮公演に対して森は、花蓮の風景の美しさは耳にしていたと話し、景勝地のタロコ(太魯閣)渓谷にも行きたいと期待をのぞかせた。
公演は4月29日に花蓮県立体育館で、5月1日に台北国際会議センターで開催される。
(鄭景ブン/編集:名切千絵)

『<水不足>北部の一部地域で3月から夜間減圧給水へ』  2/22(台北 中央社)
経済部水利署は21日、ダムの貯水量が低下しているとして、3月1日から新北市の一部地域、桃園市、新竹地区で夜間減圧給水を実施すると発表した。
同署によると、同日午後4時の時点で桃園地区の水がめ、石門ダムの貯水率は55%を下回っている。苗栗、台中、嘉義、台南に水を供給するダムでも貯水量が軒並み低下し、水不足の恐れがあるという。
ただ、減圧給水実施中も、大部分の家庭への影響はないとしている。
また、24日までは降雨の可能性があることから、石門ダムなどではヨウ化銀を使って人工的に雨を降らせる試みが行われている。(黄雅娟/編集:齊藤啓介)

台湾在住日本人

No.3664 投稿者:ふき  投稿日:2017年02月24日(金) 23時36分19秒

梧棲さん、みなさん、こんばんは。
例のカラオケ店の名前はやはり「楽天地」でしたか。あの店は中に入ると、右側の壁が全面鏡になっていて、すごく広々と見えますね。まわりに同業店がないので、客の入りはよさそうです。
さて、台湾で暮らしている日本人はたくさんいますが、台湾人と結婚したとかなら、自然に台湾語も耳に入るでしょうが、年金生活になったので、夫婦で台湾に移住したとかなると、言葉の問題は大きいと思います。台湾は日本語だけでも何とかなりますが、やはり現地の言葉が少しでも話せるに越したことはありません。一般的に日本人はどこに行っても、カタコトの英語で何とかなると考えがちですが、これはやはり無理があります。通りすがりの旅行と違い、在住ともなると、やはり現地語になじまないと、生活が楽しくなりません。それは日本国内の外国人を考えれば、容易に想像がつきます。日本に住む外国人は最初英語を使っていても、生活のために日本語を少しずつ覚えて行きます。三年も住めば、かなりペラペラです。それに対して、日本人の海外での上達ぶりは?台湾で中国語が話せる人はそこそこいると思いますが、台湾語となると、ほとんど???ではないでしょうか(笑)。ガンバレ日本人!

台湾在住日本人のブログ

No.3663 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年02月23日(木) 16時39分12秒

ふきさん、みなさん こんにちは。

 今日も春の嵐になるのかと懸念していましたが足柄では風は強くならず雨も昼前に上がりました。

 台湾旅行記録を見て確認したら台北のカラオケは「楽天地」で、梧棲の大きな海鮮料理店が「新天地」でした。
私は21世紀に入ってからはどちらにも行っていないので店名を混同していました。
私が日本語世代の友人に何度か連れて行ってもらった頃はカラオケ「楽天地」は父親が店主として働いていました。

 私は台湾で最初に知り合った友人が台中沿海部の梧棲に住んでいたので自分のハンドルネームも梧棲にしていますが、梧棲には鉄道駅もないので外国人旅行者には交通が不便な所です。
その後、近隣の沙鹿、清水にも友人ができたので、台中沿海部に行った時は比較的交通の便がよい沙鹿で友人達と会うようになりました。
 
 台湾在住の或る日本人のブログで2週間ほど前に沙鹿在住の日本人女性のことを紹介していたので、濱屋さんというこの女性のブログにアクセスしました。
私と同じ年齢で神奈川県の県立高校の国語教師を定年まで勤めた後、2004年に夫や家族を横浜に残して単身台湾に渡り、高雄の私立大学の国語講師→沙鹿の私立大学の国語教師をしてきた方だと分かりました。
最近は闘病中だった彼女は去年11月に医師、看護婦に付き添ってもらって車椅子で最後の講義をし、その2日後に台中で他界していました。
 彼女のブログには私が関心を持つ話題が多く、彼女がブログを始めた2012年分から少しずつ読み始めています。
彼女も台湾の言葉になっている日本語由来の言葉に関心を持ったようでブログに取り上げており、また私の日本語世代の友人達が終生の楽しみとしている台湾の俳句会、短歌会にも触れています。
そして日本原曲に台湾語の歌詞を付けた歌にも触れていて、今回読んだ2012年のブログには彼女が勤める静宜大学の音楽会で『黄昏的故郷:日本原曲 赤い夕陽の故郷』の合唱を聞いてとても懐かしかったと書いていました。
台湾人から、「この歌は蒋介石・国民党政権の圧政に反抗して海外に出なければならなくなった台湾人たちにとっては故郷台湾を偲ぶ歌となった」と聞かされたことも紹介していました。

 「台湾在住日本人のブログ」で検索すると人気ランク30位くらいまでのブログが紹介されています。
人気上位に紹介されているのはレストラン、ショッピング、観光、アイドルの追っかけなどをたくさん写真を使って紹介しているブログですが、正直言って私にはほとんど興味がありません。
ホテルをいつも英語名でしか書いていないブログを見ると、この人は台湾人達と滅多に接していないのではないかと判断してしまいます。通りすがりの台湾人だけでなくタクシーの運転手にもホテルを英語名で言っては通じないのではと思ってしまいます。
私は台湾社会に溶け込もうとしている日本人のブログが読みたいので台湾人と結婚して台湾で子育てしている日本女性のブログを読むことにしています。
一つが見つかるとリンク先に台湾人と結婚している他の日本人のブログを紹介していることが多いので読みたいブログが増えてきます。
異国での暮らしにはいろいろ苦労があるでしょうが、中でも彼女達に共通している悩みの一つは、夫の家族達が集まると台湾語の会話になって自分だけが「聾桟敷」に置かれているとブログに書いています。でも彼女達は台湾暮らしが長くなるにつれて台湾語も少しずつ分かって来るのではと私は期待しています。
濱屋さんのように戦中生まれで、台湾で単身生活し、台湾社会に溶け込もうとしている方のブログの内容は若い世代の日本人には人気が低くいようで、これまで私の検索では見つけることができませんでした。
ブログの主が亡くなってから知ったブログですが、2016年の分まで私は楽しく読むことができそうです。

あらら…

No.3662 投稿者:ふき  投稿日:2017年02月17日(金) 00時19分38秒

梧棲さん、こんばんは。
ひとつだけ名前が似ているので、勘違いしました。私が入った店は「新天地」ではなく、実は「楽天地」でした(汗)。この店も國賓飯店の近く(中山北路の反対側)にあります。以前は、台湾語歌が多かったのですが、今は日本語歌が中心です。経営者が変わったので、客層も変わったのでしょうか。失礼しました。
たしかに店名を見ただけで、店の雰囲気が想像できますが、店名の由来は代替わりを重ねるとだんだんわからなくなります。「藤」は、もしかして最初の経営者が「藤圭子」とか「藤あや子」のファンだったら、おもしろいですね。案外そんな単純な理由かもしれませんよ(笑)。私が昔入った高雄の「大船戸」はどうも岩手県の「大船渡」の誤植ではないかと思っているのですが、もう存在していないので、知る由もなく、残念です。

tecoさん、こんばんは。
やはり広州は暖かいようですね。春節以降の文字通りの「春」という感じが伝わります。
「食在広州」のグルメの街なので、おいしい広東料理を堪能して来て下さい。

今日から広州です

No.3661 投稿者:teco  投稿日:2017年02月16日(木) 17時25分38秒

ふきさん、みなさんこんにちは。

今朝4時半に家をでるときは0度でしたが、広州は22度で初夏のような陽気です。科学技術庁での会議に出席し19日に戻る予定です。

カラオケの店名

No.3660 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年02月16日(木) 16時43分39秒

ふきさん、皆さんこんにちは。

五木ひろしの芸名は五木寛之に因んでいるのですね。
台湾の若者に五木ひろしの台湾公演ではどのように漢字表記しているか調べてもらったら、ふきさんの予想通り「五木寛」と書かれているとメールで回答してきました。

 台湾の昼間から営業しているカラオケは日本語名の店が多いですね。
ふきさんや私が行ったことがあるカラオケだけでも「花の唄」、「三春桜」、「葵」、「春日」、「大船戸」、「新天地」、「春」、「有田」、「林田」、「藤」、「箱根」と明らかに日本語だということが分かります。
私はこの内の数軒の店主に命名の由来を訊いたことがあります。いずれの店主も日本に旅行したことはあっても或る程度の期間暮らしたことはないと答えました。
主な顧客である日本語世代の台湾人や、それより若い世代の台湾人で日本語の歌が好きな層に店の名を見ただけで、日本語の歌を気兼ねなく楽しめる店であることがすぐに分かるように日本語の店名にしているという回答でした。
私がこの10年常連になっている台泥大樓の裏側の「藤」は私が行き始めてからでも経営者が3回も替っていますが店名は変更していません。常連客の顔ぶれもほとんど変わっていません。
3名の店主とも最初の経営者が何故「藤」と命名したのかは知らないそうです。
今もあるのか否か知りませんが國賓飯店の裏側にあった「林田」は私が生まれ育った九州に多い苗字ですが、店主は林田という日本人に縁があった訳ではないと言っていました。
台中の「箱根」も台湾人の多くが知っている日本の観光地の名だから付けたと言っていました。
去年12月に「箱根」で文通相手の周彬梧夫妻と会った時に、彼等の紹介で彰化でカラオケ「雲雀」を経営している男性と知り合いました。予想通り美空ひばりのファンで店名もそれに因んだそうです。友人の周彬梧さんから台湾語の歌が好きな日本人が来るので会ってみないかと誘われたのだそうです。

当然ですが日本料理、日本風料理の店も日本語の店名が多いですね。店に来る客の多くは台湾人でも日本語の店名の方が客を惹きつけるのでしょう。日本式の喫茶店も日本語名が結構多いですね。






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