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エンリコ・マシアスの生い立ちや歌手として成功に至った道のりなどは、 彼自身の自著やレコードジャケットの解説などに詳しく書かれています。 ここでは、それらを整理し、わかりやすく表にしてみました。 |
西暦 | 年齢 | 記 事 |
12月11日、旧フランス領アルジェリアのコンスタンティヌ(Constantine)に生まれる。 本名はガストン・グレナシア(Gaston Ghrénassia)という。 父はシルヴァン・グレナシア(Sylvain Ghrénassia)といい、 主にアラブ・アンダルシア音楽(マルーフ)を演奏するバイオリニストで、 レーモン・レリス(Raymond Leyris)が率いる楽団のメンバーだった。 |
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祖母からギターを貰う。 | ||
バー・ミツワ(ユダヤ教の成人式)を受ける。 | ||
レーモン・レリスの楽団にギター奏者として加わる。 | ||
カフェのテラスなど、人前でも歌うようになり、
ジプシーの友人たちから「小エンリコ」と呼ばれるようになる。 ラジオの歌謡コンクールで優勝する。 |
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フランスのパリに住む叔母の家に預けられ、フォンテヌブロー(Fontainebleau)の高校(リセ)に通う。 | ||
秋には再びフランスに行き、学業に励む。 | ||
大学入学資格(バカロレア)の第一次試験をパスし、アルジェリアに休暇で帰る。 夏にはバカロレアの第二次試験のために再びフランスに行く。 |
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バカロレアの試験にパスし、アルジェリアに帰る。 コンスタンティヌの西方にある小さな町シャトーダン・デュ・リュメル(Chateaudun-du-Rhumel)の学校に教師として赴任する。 |
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アルジェリア独立戦争が激しくなる。 6月22日、恩師レーモン・レリスが過激な民族解放戦線(FLN)により暗殺される。 7月29日、アルジェリアを離れ、フランスへ渡る。 ニース(Nice)の叔父の知人の紹介により、サン・ラファエル(Saint Raphaël)で、 ジルベール・ベコー(Gilbert Bécaud)の前座で歌う機会を得る。 ベコーの楽団長レーモン・ベルナール(Raymond Bernard)はマシアスを激励し、パリ行きを勧める。 9月、アルジェリアのシャトーダンに帰る。 12月、クリスマス休暇を利用して、パリに行く。 |
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2月、故レーモン・レリスの娘スージー(Suzy)と結婚式を挙げるため、15日間の特別休暇をもらい、フランスへ行く。 帰郷したものの、3月、エヴィアン協定で、アルジェリアは独立。 やむなく故郷アルジェリアを最後にして、家族の待つフランスヘ行く。 パテ・マルコニ(レコード会社)から最初のレコードを出す。エンリコ・マシアスの芸名が使われる。 10月5日、アルジェリア引揚者支援のテレビ番組に出演。「さらばふるさと」を歌い、注目を集める。 ABC劇場に出演し、大成功を収める。 |
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1月、ボビノ座に出演。
ジャック・ドマルニ(Jacques Demarny)とパスカル・ルネ・ブラン(Pascal-René Blanc)の来訪を受ける。 1月10日、長女ジョシァ(Jocya)が生まれる。 「世界の子供たち」がボーイ・スカウトの歌として採用され、徐々にマシアスの名声は広まって行く。 |
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3月19日、オランピア劇場に、「シャンソンの友」の前座として出演する。 9月14日、オランダのアムステルダムのヒルトンホテルに出演。 |
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4月、真打ちとしてオランピア劇場に出演。 | ||
「いつも心に」で大ヒットを飛ばし、ヴァンサン・スコット賞を得る。 | ||
4月、ソ連ツアーで40都市を回る。 10月、最初の日本公演。ルーマニア、イスラエルでも成功を収める。 |
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2月17日、アメリカのカーネギーホールに出演。3月、オランピア劇場に出演。 カナダツアーをする。レコード会社がフィリップスに変わる。 長男ジャン・クロード(Jean-Claude)が生まれる。 |
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アメリカツアー。シカゴ、ボストン、ダラス、ロサンゼルスを回る。 | ||
カナダツアーをする。ロンドンのアルバートホール、パリのオランピア劇場で公演。 | ||
アメリカ、日本、カナダ、イタリア、スペイン各国をツアー。 | ||
アメリカ、ニューヨークのカーネギーホールで公演。日本、プラジル、アフリカでもツアー。 | ||
3月、6回目のオランピア劇場公演が成功裡に終わる。 ブロードウェーのウリス劇場で10公演。 |
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日本、イタリア、ポーランドでツアー。 | ||
カナダ、イスラエル、フランスで長期ツアー。 | ||
モナコのモンテカルロ大劇場で2週間公演。 | ||
日本、カナダ、イスラエルでツアー。 | ||
エジプトのサダト大統領から招待され、ピラミッドの前で、2万人の聴衆に向かって歌う。 | ||
レコード会社トレマ社と契約。 3月11日から4月7日まで、オランピア劇場でリサイタル。 国連のワルトハイム事務総長から「平和の歌手」という称号を贈られる。 |
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イスラエル・10日間ツアー。 4月、アメリカ各地を巡演。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでも歌う。 10月6日サダト大統領の暗殺の報に接し、作曲した「涙のベルジェ」が大ヒット。ゴールド・ディスクを受賞。 |
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ニューヨークのフォーラムに出演。ワシントン、シカゴ、ロサンゼルス、モントリオールでも公演。 オランピア劇場での公演大成功。フランス全土をツアー。 |
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3月、フランス首相からレジョン・ドヌール勲章を授与される。 パリ・オランピア劇場で3週間の長期公演。 |
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世界サッカー選手権メキシコ大会に参加するフランス・チームの応援歌「ビバ・レ・ブルー」制作にあたり、他の9人のアーチストとともに参加する。 10度目のアメリカ公演を行い、5本のテレビ・ショウに出演。 |
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シャンゼリゼの特設会場で、結婚25周年、芸能生活25周年、フランス生活25周年を祝うコンサートを開く。 | ||
パリ・オランピア劇場にて、3週間のコンサートを成功させる。 | ||
2月、娘のジョシァが結婚。 | ||
9月、日本公演。 | ||
12月23日、スージー夫人死亡。 | ||
アジダ・ペッカンとともにダリオ・モレノ賞を受賞。 | ||
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