バイオグラフィ (年表)

エンリコ・マシアスの生い立ちや歌手として成功に至った道のりなどは、
彼自身の自著やレコードジャケットの解説などに詳しく書かれています。
ここでは、それらを整理し、わかりやすく表にしてみました。

西暦 年齢 記  事
1938年 0歳 12月11日、旧フランス領アルジェリアのコンスタンティヌ(Constantine)に生まれる。
本名はガストン・グレナシア(Gaston Ghrénassia)という。
父はシルヴァン・グレナシア(Sylvain Ghrénassia)といい、 主にアラブ・アンダルシア音楽(マルーフ)を演奏するバイオリニストで、 レーモン・レリス(Raymond Leyris)が率いる楽団のメンバーだった。
1950年 12歳 祖母からギターを貰う。
1951年 13歳 バー・ミツワ(ユダヤ教の成人式)を受ける。
1953年 15歳 レーモン・レリスの楽団にギター奏者として加わる。
1954年 16歳 カフェのテラスなど、人前でも歌うようになり、 ジプシーの友人たちから「小エンリコ」と呼ばれるようになる。
ラジオの歌謡コンクールで優勝する。
1956年 18歳 フランスのパリに住む叔母の家に預けられ、フォンテヌブロー(Fontainebleau)の高校(リセ)に通う。
1957年 19歳 秋には再びフランスに行き、学業に励む。
1958年 20歳 大学入学資格(バカロレア)の第一次試験をパスし、アルジェリアに休暇で帰る。
夏にはバカロレアの第二次試験のために再びフランスに行く。
1959年 21歳 バカロレアの試験にパスし、アルジェリアに帰る。
コンスタンティヌの西方にある小さな町シャトーダン・デュ・リュメル(Chateaudun-du-Rhumel)の学校に教師として赴任する。
1961年 23歳 アルジェリア独立戦争が激しくなる。
6月22日、恩師レーモン・レリスが過激な民族解放戦線(FLN)により暗殺される。
7月29日、アルジェリアを離れ、フランスへ渡る。
ニース(Nice)の叔父の知人の紹介により、サン・ラファエル(Saint Raphaël)で、 ジルベール・ベコー(Gilbert Bécaud)の前座で歌う機会を得る。 ベコーの楽団長レーモン・ベルナール(Raymond Bernard)はマシアスを激励し、パリ行きを勧める。
9月、アルジェリアのシャトーダンに帰る。
12月、クリスマス休暇を利用して、パリに行く。
1962年 24歳 2月、故レーモン・レリスの娘スージー(Suzy)と結婚式を挙げるため、15日間の特別休暇をもらい、フランスへ行く。
帰郷したものの、3月、エヴィアン協定で、アルジェリアは独立。 やむなく故郷アルジェリアを最後にして、家族の待つフランスヘ行く。
パテ・マルコニ(レコード会社)から最初のレコードを出す。エンリコ・マシアスの芸名が使われる。
10月5日、アルジェリア引揚者支援のテレビ番組に出演。「さらばふるさと」を歌い、注目を集める。
ABC劇場に出演し、大成功を収める。
1963年 25歳 1月、ボビノ座に出演。 ジャック・ドマルニ(Jacques Demarny)とパスカル・ルネ・ブラン(Pascal-René Blanc)の来訪を受ける。
1月10日、長女ジョシァ(Jocya)が生まれる。
「世界の子供たち」がボーイ・スカウトの歌として採用され、徐々にマシアスの名声は広まって行く。
1964年 26歳 3月19日、オランピア劇場に、「シャンソンの友」の前座として出演する。
9月14日、オランダのアムステルダムのヒルトンホテルに出演。
1965年 27歳 4月、真打ちとしてオランピア劇場に出演。
1966年 28歳 「いつも心に」で大ヒットを飛ばし、ヴァンサン・スコット賞を得る。
1967年 29歳 4月、ソ連ツアーで40都市を回る。
10月、最初の日本公演。ルーマニア、イスラエルでも成功を収める。
1968年 30歳 2月17日、アメリカのカーネギーホールに出演。3月、オランピア劇場に出演。
カナダツアーをする。レコード会社がフィリップスに変わる。
長男ジャン・クロード(Jean-Claude)が生まれる。
1969年 31歳 アメリカツアー。シカゴ、ボストン、ダラス、ロサンゼルスを回る。
1970年 32歳 カナダツアーをする。ロンドンのアルバートホール、パリのオランピア劇場で公演。
1971年 33歳 アメリカ、日本、カナダ、イタリア、スペイン各国をツアー。
1973年 35歳 アメリカ、ニューヨークのカーネギーホールで公演。日本、プラジル、アフリカでもツアー。
1974年 36歳 3月、6回目のオランピア劇場公演が成功裡に終わる。
ブロードウェーのウリス劇場で10公演。
1975年 37歳 日本、イタリア、ポーランドでツアー。
1976年 38歳 カナダ、イスラエル、フランスで長期ツアー。
1977年 39歳 モナコのモンテカルロ大劇場で2週間公演。
1978年 40歳 日本、カナダ、イスラエルでツアー。
1979年 41歳 エジプトのサダト大統領から招待され、ピラミッドの前で、2万人の聴衆に向かって歌う。
1980年 42歳 レコード会社トレマ社と契約。
3月11日から4月7日まで、オランピア劇場でリサイタル。
国連のワルトハイム事務総長から「平和の歌手」という称号を贈られる。
1981年 43歳 イスラエル・10日間ツアー。
4月、アメリカ各地を巡演。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでも歌う。
10月6日サダト大統領の暗殺の報に接し、作曲した「涙のベルジェ」が大ヒット。ゴールド・ディスクを受賞。
1982年 44歳 ニューヨークのフォーラムに出演。ワシントン、シカゴ、ロサンゼルス、モントリオールでも公演。
オランピア劇場での公演大成功。フランス全土をツアー。
1985年 47歳 3月、フランス首相からレジョン・ドヌール勲章を授与される。
パリ・オランピア劇場で3週間の長期公演。
1986年 48歳 世界サッカー選手権メキシコ大会に参加するフランス・チームの応援歌「ビバ・レ・ブルー」制作にあたり、他の9人のアーチストとともに参加する。
10度目のアメリカ公演を行い、5本のテレビ・ショウに出演。
1987年 49歳 シャンゼリゼの特設会場で、結婚25周年、芸能生活25周年、フランス生活25周年を祝うコンサートを開く。
1989年 51歳 パリ・オランピア劇場にて、3週間のコンサートを成功させる。
1992年 54歳 2月、娘のジョシァが結婚。
1996年 58歳 9月、日本公演。
2008年 70歳 12月23日、スージー夫人死亡。
2009年 71歳 アジダ・ペッカンとともにダリオ・モレノ賞を受賞。
2012年 74歳 現在

(作成:2010年12月11日)
(更新:2012年12月11日)