素朴な疑問

●エンリコ・マシアスの芸名の由来は?

そもそも彼はスペイン系なのに、芸名がエンリケ(Enrique)ではなく、イタリア風にエンリコ(Enrico)となっているのは、以前から「変だなあ」と思っていました。

実はこのエンリコはアルジェリアのコンスタンティヌにいたころ、すでにそう呼ばれていたのが起源です。彼は16歳のころ、カフェテラスなどに集まり、ギターで歌うジプシーたちのグループと友達になりました。そのジプシーたちのリーダーは背も高く、「大エンリコ」(le grand Enrico)と呼ばれていたので、まだ年少の彼をカフェやビストロに出入りしやすくするために、リーダーの弟分として、「小エンリコ」(le petit Enrico)と愛称で呼んだのです。
後に、彼はフランスのパリに出て、最初のレコードを出す際に、この愛称を芸名としました。 「マシアス」のほうは、ボクサーだった従兄弟の対戦相手の名前(Rol Raton Macias)をもじり、本名グレナシア(Ghrénassia)を短く略し、最後に"s"を加えて、ナシアス(Nassias)としたつもりでしたが、レコード会社のスタッフと電話でやりとりしたため、どこでどう間違えたのか、レコードのジャケットが出来上がって来てみたら、そこにはマシアス(Macias)と印刷されていました。彼は驚きましたが、今更どうしようもなく、かくしてエンリコ・マシアスという名前の歌手が誕生したのです。

●エンリコ・マシアスはスペイン人か?

日本のレコードやCDの解説には、判で押したように、 「マシアスの父はスペイン人、母はフランス人」などと書かれていますが、 これは誤解を与えます。 彼の本名グレナシアはたしかにスペインの名前であり、 家系は昔スペインのアンダルシア地方に住んでいたユダヤ人に遡りますが、 19世紀に宗教的迫害を受け、スペインを追われ、北アフリカに逃れて来ました。
彼の祖父は金髪で、緑色の目をし、まるで北欧やゲルマン人のようだったと マシアスは自著の中で述べていますが、アラビア語を日常語として、 アルジェリアのジェマプ(Jemmapes)で布地を売って生計を立てていました。
その息子である彼の父シルヴァンは仕事を見つけるため、コンスタンティヌに出て、 彼の母スザンヌと出会い結婚して、マシアスが生まれました。 彼の母についての情報はあまりありませんが、 古くから代々コンスタンティヌに住んでいたやはりユダヤ人の家系のようです。
したがって、マシアスの両親はどちらもアルジェリア生まれのユダヤ人ということになります。
田所光男氏は「 エンリコ・マシアスの歌うアラブ=ユダヤ共生 」の中で、 彼の歌「Le juif espagnol」を取り上げ、これはマシアス自身のことを歌っていると 言っていますが、まさにその通りです。
スペイン人ではなく、「スペイン系ユダヤ人」こそが彼の心の中のアイデンティティなのでしょう。

●エンリコ・マシアスの好きな歌手はダリダ?

エンリコ・マシアスが子供のころに好きだった歌手は、ダリダ(Dalida)、 アズナブール(Aznavour)、ルイス・マリアーノ(Luis Mariano)だったそうです。
特にダリダは彼のアイドルでした。彼女の大ヒット曲「バンビーノ」もよく口ずさんだといいます。
マシアスがフランスで有名になり、人気が出始めてきたころ、 彼はその憧れのダリダといっしょにツアーもしました。 その後、テレビなどでも仲良く共演しています。
↓YouTubeから探して来た映像です。
エンリコ・マシアス ダリダとの共演
幼な友達のようにも、恋人同士のようにも見えます。

1979年9月にマシアスがサダト大統領の招きにより、エジプトでコンサートを行った際も、ダリダは招待されていました。彼女はエジプト生まれですね。
その彼女は1987年5月3日にパリの自宅で睡眠薬を飲んで自殺しました。
マシアスは何を思ったことでしょうか。

●エンリコ・マシアスに兄弟はいたの?

3歳年下のジャン・クロードという弟がいました。子供のころは病弱だったそうです。 母親はすべての愛情をこの弟に注いでいたとマシアスは言っています。
なぜなら、マシアスの生まれる直前に、 マシアスの祖母が7歳になる末っ子ガストンを白血病で亡くしていたからです。 マシアス(本名ガストン)はこの叔父にあたるガストンの生まれ変わりとして、 同じ名前を与えられ、祖母の愛情を一身に受け、可愛がられたというわけです。

その弟ジャン・クロードは1965年の夏、フランス南部のエクサン・プロヴァンスで、 自動車事故により亡くなりました。23歳でした。 なお、いっしょに乗っていた歌手のセルジュ・ラマは重傷を受けたものの幸い命は取り留め、 リハビリの後、復帰しました。
それから3年後、マシアスに2人目の子供が授かりました。長男です。 その子には弟と同じジャン・クロードという名前が付けられました。 やはり弟の生まれ変わりのつもりでしょうか。 そういう命名の慣習があるんですね。

●エンリコ・マシアスとジプシー・キングスの関連は?

15歳くらいで、ギターを弾き始めたマシアスはフラメンコ音楽が大好きでした。 彼の家のすぐ近くにはカフェがあり、ジプシー・キングスのようなグループが テラスで毎晩歌っていたといいます。彼はそれを近くで聞いていました。 彼の耳には自然にフラメンコのリズムや歌い回しが刻まれて行ったことでしょう。 また、そのうちに彼らの仲間に入り、実際にギターの運指も教わるようになりました。 こうして彼のギターの演奏はメキメキと上達して行ったのです。
フランスに渡り、流行歌手の道を選んだ時、 彼は自分がスペイン系であることを強調しました。 そして、フラメンコ風の歌唱を売り物にしました。 当時はイエイエの全盛。数多くの歌手の中に埋没しないためには、強烈な個性が必要でした。 それがマシアスの歌手としての成功の秘訣だったと思います。 マシアスが初期に作った歌はほとんどスペインというかフラメンコ色が濃いです。

そのマシアスが1977年9月から10月にかけてオランピア劇場に出演したとき、 彼はその舞台で、 「数週間前まではサン・トロペの海岸でギターを弾いていた生粋のジプシーたちです。」と、 当時はほとんど無名だったロス・レイエスのグループを紹介、 彼らの持ち歌「ロ・ライ」を発表させる機会を与えました。
このあたりがマシアスの度量の大きなところです。

その後、ロス・レイエスは大きく成長、 そしてジプシー・キングスへと引き継がれて行くことになります。
ちなみにロス・レイエスを率いていた父親のホセ・レイエス(1979年死亡)は あの驚異的なフラメンコ・ギタリストであるマニタス・デ・プラータの カンタオール(歌い手)でした。

●エンリコ・マシアスと石井好子の出会いとは?

マシアスが1967年4月にソビエトツアーのためモスクワを訪れていたとき、 あるホテルのエレベータの前で偶然に同時期に旅行をしていた石井好子と出会いました。 マシアスは右手に怪我していたのですが、石井好子は彼をマシアスとは知らず、 その青年を気の毒に思い、 同行していた日本人の医師の部屋へ案内して、手当てをしてあげました。
このような奇遇により、 マシアスは日本進出への大いなる協力者を得ることになりました。 その年の10月には、彼女の招きにより、初めて日本を訪れ、公演を成功させています。 また、その後何度も石井音楽事務所の主催で、日本でコンサートが開かれました。
このときの二人の出会いがなければ、 マシアスがこれほど日本に来ることはなかったかも知れません。 ほんとに人の出会いとは不思議なものです。


(作成:2010年12月11日)
(更新:2013年06月25日)