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久しぶりに板橋に帰りました

No.4412 投稿者:葛(新北市)  投稿日:2019年04月06日(土) 14時01分06秒

ふきさん、tecoさん、こんにちは。

久しぶりに我が家に戻りました。母が亡くなり遺骨とともに諏訪で療養を兼ねて生活をしてきましたが、納骨も終えましたので我が家に戻りました。年号も令和に移行されるので人生の最後は板橋で生涯を送る事になると思います。やはりり我が家は台湾でしょうか?やっと安心できる場所に落ち着いたような気がします。息子たちが親父に安心して暮らせるようにと郊外に民家を購入したと云われました。落ち着いたら見に行きます。嬉しいような老人扱いされたくないような複雑な気持ちです。

台湾老歌

No.4411 投稿者:ふき  投稿日:2019年04月05日(金) 22時05分07秒

tecoさん、こんばんは。

昔は何事もおおらかでした。経済的には現在のほうが当然豊かですが、昔はその分心が豊かで、時間がゆったりと流れていたように思います。懐かしい思い出はたくさんあります。
台湾といえば檳榔ですが、最近はあまり見かけなくなりました。ミニスカートの檳榔小姐たちも失業してしまったかな(笑)。
台湾の通りの建物には大きな看板が縦に打ち付けてあり、朱色の大きな文字で店名が書いてあるのが一般的ですが、都市部はだいぶ小綺麗に整理されて、徐々にですが、あの大きな看板がなくなりつつある気がします。あれがあると、「台湾に来た」という思いがするのですが、もう日本とあまり変わらぬ街並みですね。それと路上での物売りが台北ではほとんど見かけません。おそらく規制しているのでしょうが、町を歩いても、コンビニがやけに目につき、「どこかで見た風景」に変わりつつあります。
台湾の老歌というと、ほとんどの人が先ず「雨夜花」をあげると思いますが、これはもともと創作歌謡でした。曲調はワルツで、もの悲しく、本来の台湾民謡らしくありません。やはり「焼肉粽」のような生活直結歌が台湾らしいと言えば、台湾らしい歌です。もちろん「望春風」や「安平追想曲」をはじめ、戦後に生まれた歌も含め、たくさんの台湾老歌が今でも歌い継がれています。
どんなに経済的に豊かになっても、人々の心のやすらぎに老歌は欠かせないビタミン剤のようなものですね。

1980年代の歌

No.4410 投稿者:ふき  投稿日:2019年04月05日(金) 22時04分34秒

桂大哥さん、こんばんは。

いやはや驚きました。あの發三電機に何度も足を運ばれていたとは…。私は地元なので、経済的な負担はほとんどないですが、京都からだとかなりの出費になりますね。桂大哥さんが中国語の歌に最初に興味を示されたのが1980年代の頃と思いますが、あのころ日本で中国・台湾のレコードやカセットを売っていたのはおそらく横浜中華街の發三電機だけだったと思います。確認はしていませんが、神戸や長崎の中華街にはなかったと思います。發三電機は、つるつる頭の店主の話によると、1968年の創業なので、相当な老舗でした。店主が自ら飛行機に乗って、台湾や東南アジアに買い付けに行くので、値段は震えが来るほど高いです。カセット一枚3000円、CD一枚4500円の値段を聞いた中国人の観光客が真っ青になって、絶句したのを私は何度も目撃しました。私のサラリーマン時代は中華街が会社から歩いて10分ほどの距離でしたので、「冷やかし」に時々寄ったものです。さらに桂大哥さんが香港台湾映芸苑もご存じだったとは、まさに「嚇了一跳!」です。發三電機よりは品揃えが少ないですが、値段が安いので、私も時々利用しましたが、こちらはいつの間にか閉店してしまいましたね。發三電機の閉店は2007年10月15日です。店主がいうには「近くの自宅で細々続けるか、通販をやるか考えている」と言っていました。ただ、1990年代の中頃には東京や大阪に専門店ができ、また大手のタワーレコードやHMVでも中華ポップスを扱うようになったので、あの店の存在意義はとっくになくなっていたのです。そのころ私も東京の池袋や新大久保に買出しによく行きました。電車賃をかけてもそのほうが安くあがりました。これも時代の流れでしょうか。
桂大哥さんはゴダイゴ・ファンでしたか。ゴダイゴが主に活動していたのは1980年代なので、私は全然わかりません。私が歌謡曲を聴きだしたのは1995年以降で、そのころの歌手やグループなら、だいたい知っています。ただ、好き嫌いは当然あり、メロディーがわかりにくいミスチルなどは敬遠しがちです。一昨日、友人と横浜駅近くのカラオケボックスで3時間カラオケしました。友人は1980年代のフォークが得意で、たとえば井上陽水や安全地帯、長渕剛などの歌を好んで歌いましたが、あの頃の歌はメロディーがいいですね。ゴダイゴの「ビューティフル・ネーム」をYouTubeで視聴しましたが、これならストライクゾーンです。1980年代の歌の再発掘をそのうちやろうかなと思っています。

台語歌を覚えたころ

No.4409 投稿者:teco  投稿日:2019年04月05日(金) 01時14分01秒

ふきさん、葛さん、桂さん、みなさん、こんばんは。

みなさんひとりカラオケをなさっているのですね。
私はひとりカラオケはまったくと言っていいほどしません。
ギターやマンドリンをやっているので、カラオケ店には仲間と連れ立っていきますが、歌うことは少なく、採譜やコード練習、弾き語り練習に利用しています。
台語歌や国語歌は台湾のカラオケで覚えた曲がほとんどです。
日本ではまず聞くことができない民歌に魅力を感じ、老歌を歌える人(見ず知らずのお客さん)に教えてもらったりしました。
私が台湾で仕事をしていたころにはビンロウ祭が各地で催され、採檳榔を歌いながら思い思いの振り付けで踊るコンクールみたいなものも催されていました。
また、映画も盛んでしたので、暇なときは一日中映画館に入り浸っていました。
当時は途中で追い出されることもなく、お弁当を食べたりお菓子をつまんだり、椰子のジュースを飲んだり、はたまた上映中にタバコを吸っている人もけっこう多くいました。
映画の主題歌もずいぶん流行り、私も教えてもらって歌えるようになりました。
安平追想曲は好きで今でも歌っています。
一番初めに覚えた歌は雨夜花で、次は望春風でした。当時すでに懐念歌と言われていたような曲ばかりで、それが老歌であることさえ知らないで歌っていました。
相思雨が流行ったころは、どこの店に行っても必ず誰かが歌っていましたね。
焼肉粽はいっとき歌唱禁止だったそうですが、私がいたころは官憲のお咎めもなく、問題なく歌えました。面白い歌で今でも好んで歌っています。
台南に行くと、当時はやった歌を友人たちと片っ端から歌っています。



發三電機商会

No.4408 投稿者:桂大哥  Mail  URL  投稿日:2019年04月04日(木) 22時02分24秒

皆さんこんばんは。桂大哥です。
 カラオケで福山雅治やスピッツを歌われるとは、ふきさんは私より若いですね(笑) 私は一人カラオケでは訳詞のチェックは別として、専らゴダイゴばかり歌っています。実は私が中国語を始めたきっかけはゴダイゴの天津でのライヴアルバムで、初めて覚えた中国語がビューティフル・ネームの中文詞“毎個孩子都有一個漂亮的名字”でした。そこから中国語の歌に興味を持ち始め、大学の卒業旅行で行った中国(上海と蘇州)で向こうの音楽カセットをいくつか買ったのが最初でした。当時はまだ大陸と台湾の違いなど全くわからず、ただ中国のポップスが聴きたいだけでした。
 それから数年後、横浜中華街に中華ポップス専門の店があると知って訪れたのが發三電機商会でした。ここで方季帷や陳明眞、伊能静など台湾の歌手を知るようになって、私の関心は大陸から台湾へと移っていきました。ちなみに發三電機商会へはその後もたびたび訪れ、店のおじさんとは顔なじみになってしまいました。その後京都や大阪でも台湾POPSのCDが買えるようになって横浜へ遠征することもなくなりましたが、發三電機商会も今は閉店してしまったらしいですね。
 そうそう、横浜中華街と言えばもう1軒、香港台湾映芸苑という店がありました。ここも台湾POPSを扱っていて台湾人の若い男女(兄妹?夫婦?)が経営されていました。ここも私がよく利用していまして、お店の方とは顔なじみになってました。最後に中華街へ行ってからもう20年ぐらいになりますが、街の様子も結構変わっているんでしょうね。
 とりとめのない話で失礼いたしました。

一人カラオケ

No.4407 投稿者:ふき  投稿日:2019年04月01日(月) 23時24分05秒

葛さん、桂大哥さん、みなさん、こんばんは。

私は台湾歌謡が好きですが、そんなに造詣が深いというわけではありません。優雅を知ったのも1990年代のことです。
たしかに1978年に鳳飛飛やテレサ・テンらのカセットを買って、台湾の歌に触れるきっかけにはなりましたが、まだまだ底が浅いものでした。テレサ・テンの歌に「香港之夜」というのがあったので、私はずっと彼女を香港の歌手と考えていたほどです。この程度なので、北京語と台湾語の区別ができるわけもなく、台湾語はテレビやラジオの中国語講座とはすこし違うなと思っていました。そこでもうすこし詳しく知りたいと思い、東京の神田神保町に行き、台湾語の会話や文法の本を探したのですが、結局見つかりませんでした。1978年の時点では、台湾語の入門書は皆無だったのです。日本で最初に王育徳氏の「台湾語入門」が発刊されたのは1982年のことですが、そのころの私は音楽休眠状態で、それがずっと17年も続きました。
2回目の台湾は1995年の夏でした。音楽媒体はカセットからCDへ移行中でした。ただ、知らない歌手が圧倒的に多く、知っている歌手はテレサ・テンくらいなので、彼女の「我只在乎[イ尓](時の流れに身をまかせ)」のカセットを1枚だけ買って帰りました。日本に帰って、やっと彼女が台湾の歌手であることを再認識した次第です。
このとき買ったアルバムが直接のきっかけとなり、その後次々と台湾のカセット・CDを買い込むことになります。もともと洋楽オンリーだった私が新しい「台湾」ジャンルを開拓した瞬間です。台湾に行かずとも、日本で台湾のCDを入手することは可能でした。私の地元の横浜には、中華街がありますが、そこで昔からやっていた発三(ハツミ)電機というレコード屋でかなり台湾のCDを買いました。最初に買ったのは孟庭葦の「眞的還是假的」(ホントそれともウソ?)です。篠山紀信氏の写真集が付いていました。可愛い子でしたね。歌を聴くと、なんかファンタジーの世界でさまよう感じです。それから東京にも行きました。このころ池袋付近に中国人が集まるようになり、彼らのために書籍やCDを売る店が出現していたのです。伍思凱、陳淑樺、潘越雲、萬芳、王傑、周華健など台湾・香港の歌手のカセット・CDを買い集めました。そして、翌年以降の台湾旅行はカセット・CD買出し行脚と変化しました。ちなみに2001年以降はネット通販も利用し、ますます拍車がかかりました。
尤雅の歌もたくさんあります。初期は「往事只能回味」、後期は「等無人」のヒットで、国語、台語どちらもOKの本土派歌手ですが、彼女のベスト・アルバムを聴くと、日本デビューの「処女航海(出航)」は曲調が台湾の歌とすこし異なり、当時はあまり受けなかったのではないかと思われます。
葛さんがご指摘の尤雅の「難忘的愛人」は前に話題になった高石かつ枝の「南国エレジー」ですね。この歌はまさに尤雅にぴったり。私も一人カラオケで時々歌います。ちなみに私は1995年くらいから、台湾だけでなく、日本の歌謡曲も聞き始めました。そんなわけで、あまり古い歌は知りませんが、なんとなく知っていて、歌ってしまうものもあります。一人カラオケでよく歌う歌手は福山雅治、スピッツ、フィールド・オブ・ビュー、辛島美登里などです。辛島美登里は1995年に北京の天壇公園で開催された平和音楽祭での出演をテレビで見て、ファンになりました。ピアノの弾き語りがシャンソンぽくて、素敵です。それ以来しばらくCDを買っていました。当然歌も覚えてしまうわけで、一人カラオケでこっそり歌っています(笑)。ナツメロも知っているのは歌いますが、そんなに多くはありません。ビートルズの歌はまだ歌えるかなと思い、先日ちょっと試したら、キーはすこしきついもののスラスラと歌えました。20〜30曲は行けそうです。せっかく覚えた台湾の歌も歌わないと、特に「頭」を忘れてしまいがちです。こまめにメンテナンスしないとダメですね。がんばります。

尤雅 難忘的愛人

No.4406 投稿者:葛(新北市)  URL  投稿日:2019年03月30日(土) 21時55分38秒

みなさん、こんばんは。

桂大哥さんはだいぶお若いんですね。民国の年代でお答えいただき嬉しいですね。ふきさん、tecoさんのお二人は大の台湾通ですのでこれからも台湾歌謡で花を咲かせてください。「梅蘭梅蘭我愛你」は台北出身の劉文正と崔苔菁もリリースしています。
URLに記載した「難忘的愛人」は曲名のように私にも身に覚えのある思い出のある曲です。桂大哥さんの訪台が民国80年との事ですので28年ほど以前の事ですね。みなさん一人カラオケを楽しまれるので私も時々利用しています。桂大哥さんとは親子ぐらいの年齢差がありますが、宜しくお願いいたします。

一人カラオケで

No.4405 投稿者:桂大哥  Mail  URL  投稿日:2019年03月30日(土) 19時41分56秒

皆さんこんばんは。桂大哥です。
 優雅の情報いろいろとありがとうございます。私が初めて台湾を旅したのは1991年の夏でしたが、その頃向こうの雑誌か何かで尤雅の名前を目にしたような覚えがあるのですが、それがあの優雅とは思いませんでした。
 ところで、今日の昼間、久しぶりに河原町の一人カラオケに行って来ました。そこで優雅の曲を探したら、残念ながら『初航』はありませんでしたが、日本語版の『処女航海』があったのには正直びっくりしました。早速中文版で歌ってきました(笑) それと尤雅の國語曲は全部で14〜15曲ほどありましたがその中で1曲だけ見憶えのあるタイトルがありました。『梅蘭梅蘭我愛你』という曲ですが、もう30年以上も前に、神戸の南京町(だったと思う)で買った大陸の男性歌手のカセットに収録されていたんですね。まさかこの曲が尤雅の曲だったとは新しい発見でした。
 最後になりましたが、私は民國52年生まれです。

尤雅-は懐かしい歌手です

No.4404 投稿者:葛(新北市)  投稿日:2019年03月29日(金) 08時23分18秒

ふきさん、teco さん、桂大哥さん、こんにちは。

桂大哥さんは尤雅のファンという事ですが年代はいつ頃の方ですか?懐かしいネームですね。彼女も現在65歳になっています。ふきさんは台湾歌謡には造詣が深いので私が説明することは僭越ですが私の記憶にある尤雅-の事をお話しさせて下さい。
处女航海と云えば1970年頃ですので私は板橋で生活していました。決して美人とは言えませんがかわいい印象があります。台湾での活動は云うまでもなく
1973年に来日し、翌年日本でのデビューを果たしたています。岡崎友紀主演の「私は忘れない」の主題歌を「夏天已過去」という曲名でリリースしています。本名林 麗鴻と云いますが近年はあまり見かけなくなりました。台湾映画の「彩雲飛」主題歌は今でも記憶に残る好きな曲です。
尤雅は歌手であるとともに女優でもあります。

優雅

No.4403 投稿者:ふき  投稿日:2019年03月28日(木) 21時26分38秒

桂大哥さん、こんばんは。
いいですね。小学生のころに優雅に「出会った」というわけですね。私なんか優雅はもっとももっと後の話になります。
実をいうと、私が流行歌に目覚めたのは高校生になってからで、それも海の向こうからやって来たビートルズでした。わずかな小遣いでレコードを少しずつ買いました。エレキギターもそのうち買い、ロックやR&Bに心酔したのが最初ですが、高校卒業間近に、やはりクラスメートでエレキをやっている友達が「エレキはもうやめた。あんなのやってるのはバカばっかりだ」と言われ、私もそう思い、あっさり別の友達にエレキを売ってしまいました。実はそのころ同時に流行していたヨーロッパのポップスに感化されてもいたからです。ビートルズや類似のグループのレコードが30枚くらいありましたが、そういう音楽が好きだという近所の女の子に一括500円で叩き売りして、こちらもすっきりさせました。
その後は、イタリア、フランス、スペインの音楽に没頭することになります。ギターは生ギターを買い、暇さえあれば、近くの公園でシャンソンの伴奏やフラメンコギターの練習に励みました。
1978年に初めて台湾に行き、お土産に買って帰ったカセットを聴きながら、台湾の歌を覚えましたが、中国語と台湾語の区別もまだあまりよくわからず、苦労しました。そのうち、だんだんと台湾の歌になじんでは行きましたが、仕事が忙しくなり、1980年代はほとんど音楽を聞かないブランクの時代です。やっと1990年代の中ごろに台湾を再訪し、昔のことを思い出しながら、台湾歌謡に本格的に没頭して行く事になります。ここでようやく台湾の多くの歌手を知り、優雅やほかの多くの女性歌手が昔日本に来ていた事実もわかり、これは面白いと、少しずつ調べて行きました。これが、後日の「日本に恋した台湾の歌姫たち」のベースとなります。
また彼女たちの歌う歌の多くが日本の歌のカバーであることもわかりました。そこで、その比較もまとめてやろうと思い、これが「日台共通歌曲」のベースとなりました。私はもともと日本の歌謡曲といえば、巷に流れて自然に耳に入った曲以外はほとんど知らなかったのですが、台湾の歌を知り、そのルーツから逆にさかのぼり日本の歌も結構覚えました。そんなわけで、まさに「台湾歌謡」様様と言って、感謝したいです。
優雅の「処女航海」もリアルタイムで聴けた世代ですが、残念ながら逸しました。台湾のテレビで彼女を何度か見ましたが、歳を取ってもやはり昔のように可愛いですね。そんな彼女が日本のことを語るとき、そんなに長くはなかったけれど、楽しい思い出があるのでしょうか。表情が生き生きしていて、懐かしそうでした。こちらも、ついホロッと来てしまいます。いい時代だったんでしょうね。

40年ぶりの邂逅

No.4402 投稿者:桂大哥  Mail  URL  投稿日:2019年03月27日(水) 21時26分03秒

皆さんこんばんは。桂大哥です。
 今日は超個人的な思い出話をさせていただきたいと思います。
 このHPの「日本に恋した台湾の歌姫たち」の中で優雅の名前と写真を見つけた時、忘れかけていた記憶を思い出してしまいました。もう40年以上も前の話ですが、当時小学生だった私はテレビの歌番組で優雅の『処女航海』を聴いて子供心に「こんなお姉さんいいなあ……」なんて思ったものでした。まあ今にして思えば彼女が「憧れのお姉さん」だったのかも知れませんね。貴HPがきっかけで優雅のことをネットで検索していたらYOU TUBEで彼女が台湾の歌番組で『処女航海』を歌っているのを見つけました。4〜5年前の映像らしいのですが、1番を國語、2番を日本語で歌っていて、時が流れてもやっぱり彼女は「お姉さん」だなって改めて思ってしまいました(笑) この中文版『初航』いつかカラオケで歌ってみたいと思います。
 個人的な思い出話で失礼いたしました。

日本の外交

No.4401 投稿者:ふき  投稿日:2019年03月25日(月) 22時10分49秒

tecoさん、葛さん、こんばんは。
日本は大変な時代に直面しています。「アメリカが頼りにならない」というのはその通りで、トランプの頭にあるのは次期大統領に再選することだけです。目先のアメリカの経済指標の数字が気になってしょうがないのは、景気が悪いと、国民にそっぽ向かれることを知っているからです。そのためには同盟国といえども容赦をしません。政治家というのは、あらゆることを考慮して、判断するものですが、トランプの場合は過去に積み上げてきた信頼と実績などは二の次に考えているようで、困ったものです。

ただ、それでも日米同盟以外に選択肢がない現在は、我慢して、アメリカとつきあうしかないですね。アメリカを捨てた場合、または捨てられた場合(?)、核を持たない日本は中国かロシアと組むしかありませんが、どちらもタヌキとキツネの類で、非現実的です。中華人民共和国日本省かロシア連邦ヤポニア共和国にされるのが落ちです(笑)。

同じことは台湾も考えていると思います。2300万の台湾人のほとんとが現状維持を望んでいると思います。大陸とは商売がらみで、口の重い人もいるかと思いますが、戦後70年以上が過ぎ、外省人でさえ、台湾から出たくないと思います。自由と民主主義が根付いた国は東アジアでは台湾だけです。アメリカもいつまでもトランプというわけでもないので、ここは日台米の同盟を目指すべきで、そのためには真面目に安保問題を考え、tecoさんがおっしゃるように、日本もアメリカに習い法整備をしっかりとすべきですね。
蔡総統が今回ハワイを訪ねたのも遊びに行ったわけではなく、アメリカのしかるべき筋と安保問題を論議しに行ったのだと思います。日本もぜひ蔡総統をお呼びしたいですね。

去年、安倍首相は中国を訪れ、習近平と会い、一帯一路計画に賛同すると言いました。多くの側近が反対する中、どうしてなのかと不思議に思いますが、条件付きの賛同でした。その最も大事な条件とは「透明性の確保」と「適正な融資」です。これでは貧困国によくわからない多額の融資なんてできなくなります。経団連とおそらく親中派の二階幹事長あたりに肩を押されて、渋々の決断だと思いますが、別にイタリアみたいに覚書も交わしていないようなので、私は「外交の知恵」の一つだと思っています。

それから韓国ですが、文在寅の頭の中にもう日本はありません。北朝鮮との統一のことだけです。でも考えてみたら、統一国家ってやはり無理です。政治体制はどうするんですか。絶対君主の金正恩が玉座を下りるなんてことはありません。韓国が民主主義と選挙を捨て、金正恩にひざまづくしかないのです。北朝鮮は核兵器を持っているんです。今の韓国の極左政権が考えているほど甘くはありません。経済が悪化すれば、文在寅もほかの大統領と同じ運命を辿るだけです。最近の日本に対する敵がい心もケロっと忘れ、また日本にすり寄って来るかもしれませんが、日本はかかわる必要はありません。

葛さん、私は最近毎日マスクをして、出かけます。めんどうですが、仕方ないですね。2、3日前、鼻水ボタボタ止まらず、ティッシュペーパーの箱を半分も浪費してしまいました。早くこの期間が過ぎることを祈ります。今日近くの公園まで散歩に行きましたが、もう桜の花が半分くらい咲いていました。長野は高度があるので、まだだと思いますが、東京近郊はもう春になりました。






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