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お知らせ

No.4517 投稿者:teco  投稿日:2019年06月19日(水) 10時14分12秒

ふきさん、葛さん、みなさんおはようございます。

一週間ほど前からフェースブックの投稿に支障があり、ページに直接書き込みできなくなりました。
コピー&ペーストで書き込んでいましたが、かなり面倒なので一度アカウントを削除して新しくアカウントを取得する予定です。
新しいアカウントが取得できましたらお知らせします。
よろしくお願いします。

懐かしさいっぱい

No.4516 投稿者:葛(新北市)  URL  投稿日:2019年06月18日(火) 07時38分23秒

ふきさん、tecoさん、みなさん、こんにちは。

台湾映画の名作、『彩雲飛』がデジタル修復されました。往年の美人女優、甄珍さんが主演した『彩雲飛』は、女流作家、瓊瑤さん原作で1970年代にブームになり私は夢中でこの映画を見たことを今でも鮮明に覚えています。甄珍さんはこの映画で一人二役を演じ、自然な演技が大好評で最大の代表作となりました。彼女も今年で71歳になります。
甄珍さんは台湾のアカデミー賞とされる、(金馬奨)で特別功労賞を受賞、主催者側は『彩雲飛』を上映しようとしたが、国家映画センターに残るプリントの状態が極めて悪く、香港のプリントは10分間放映できない部分があった。このため、国家映画センターではデジタル修復を決定、二つのプリントを合わせて1年かけて美しく甦らせたそうです。
甄珍さんはこのデジタル化された映画を見て昔の映画をこれほどきれいに修復できることは幸せなことで、光栄だ」と話した。かつての台湾映画の多くで修復が待たれていることから、国家映画センターはこのほど初めて李行・監督と協力し、李・監督の手がけた映画12本のスチールをカレンダーにして発行、映画ファンに販売してデジタル修復の資金にすると云う。この映画の挿入歌「我怎能離開你(彩雲飛)」と「千言萬語」を詞を見ながら懐かしい気持ちで一杯になりました。この二曲はいずれもケ麗君の歌で歌われていますが、我怎能離開你は映画のサウンドトラック盤(電影原聲版)で今もなお私の脳裏に焼き付いています。何時も思う事はテレサの歌には「女の優しさ」があります。女の「温かさ」があります。そのように感じながら聴いています。


我怎能離開你(彩雲飛)
曲:古月 詞:瓊瑤

問彩雲何處飛,願乘風永追隨,
有奇緣能相聚,死亦無悔,
我柔情深似海,你痴心可問天,
誓相守長繾綣,歲歲年年。

我怎能離開你,我怎能將你棄,
你常在我心底,信我莫疑,
願兩情長相守,在一處永綢繆,
除了你還有誰,與我為偶。

藍色花一叢叢,名叫做勿忘儂,
願你手摘一枝,永佩心中,
花雖好有時枯,只有愛不能移,
我和你共始終,信我莫疑。

千言萬語 映画挿入歌
不知道为了什么
忧愁它围绕着我
我每天都在祈祷
快ー走爱的寂寞
那天起
你对我说
永远的爱着我
千言和万语
随浮云掠过
不知道为了什么
忧愁它围绕着我
我每天都在祈祷
快ー走爱的寂寞
那天起
你对我说
永远的爱着我
千言和万语
随浮云掠过
不知道为了什么
忧愁它围绕着我
我每天都在祈祷
快ー走爱的寂寞

この映画に出演主題歌も歌った優雅( 尤雅)も今年で65歳、1973年には来日し、翌年日本でCBSソニーからデビューを果たしていました。
あとはふきさんがご存知の1967年(昭和42年)に台湾のレコード会社五虎唱片から出した『難忘的愛人』(高石かつ枝『南国エレジー』のカバー)や、『給無良心的人』(畠山みどり『無情念仏』のカバー)などがヒットしました。

https://www.youtube.com/watch?v=6NEBL4s3GBY ケ麗君 - 我怎能離開你 (電影原聲版)

https://www.youtube.com/watch?v=XEM36DUWx2Q 1973 彩雲飛(映画)

https://www.youtube.com/watch?v=KC5LNtDotzE 尤雅--彩 云 飛

22日から免許証の更新と認知症試験を受けるため一度帰ります。今回限りで次回は免許証の更新はしないつもりです。事故多発のニュースを聞くたびに他人ごとではないと思います。

少しは落ち着かれましたか

No.4515 投稿者:葛(新北市)  投稿日:2019年06月18日(火) 04時03分15秒

A Bengさん、


母上が旅立って早11日が経たれたとの事、やはり一抹の淋しさはある事でしょう。私事ですが一昨年母をみおくりました。97歳の大往生でした。しかし今でも時々思い出します。男は父親よりも母親の方が何時までも心に残ると云います。フェースブックで
お母様のお写真を拝見しました。気持ちを癒すために愛車でドライブなどして元気を取り戻して下さい

新しい生活

No.4514 投稿者:A Beng  投稿日:2019年06月18日(火) 00時56分30秒

ふきさん、みなさん。こんばんは。
さて、私の最愛の媽媽が天国に旅立って早11日が経ちました。役所等の諸手続きも終わり、やっと一段落です。でも、やはり一抹の淋しさはあります。
新しい生活を、するにあたって5か条をやろうと思います。
(一)社会貢献を行う
(一)感謝する
(一)物事は良い方に考える
(一)ヤル気(意欲)を持って生活する
(一)いやの事は考えないように

好きな事を夢と希望を持って行い。
プラス思考を守り、いやな事は考えず気分転換を行う生活をすれば、楽しい幸せ感に包まれた人生になると思います。

媽媽の四十九日が、開ければ新たな活動を開始したいと思います。
第一は、台語カラオケオフ会をやりましょう。

伊沢修二

No.4513 投稿者:ふき  投稿日:2019年06月17日(月) 21時57分53秒

葛さん、こんばんは。
伊沢修二はまったく知りませんでした。さすがは葛さんですね。恐れ入りました。伊沢修二のような先人たちの努力により現在の良好な日台関係があるわけで、彼らが築いた苦労の歴史を忘れるわけにはいきません。
「日台は運命共同体」というのはその通りで、さらにいえば、フィリピンやインドネシアも含まれます。アジア大陸と太平洋の間にあるこれらの国は一連の大列島のようで、いろいろな共通点があります。これからも手を携えて行きたい価値観の近い国であることにまちがいはありません。

台湾の教育に生涯を捧げた伊沢修二

No.4512 投稿者:葛(新北市)  投稿日:2019年06月16日(日) 04時30分01秒

ふきさん、teco さん、お早うございます。

皆さんからのコメント有難うございました。私の投稿する話は長すぎて皆さんに負担をかけているのではないかと心配していました。今台湾では近代の台湾の礎を築いた日本人の功績を称えるサークルがあります。その事を知ったのは板橋の老人の集会にお誘いをいただいた事でした。ほとんどが歴史に残る日本人の話です。ご迷惑かも知れませんが投稿させて下さい。

今回は伊沢修二です。幕末の1851(嘉永4)年、信州・高遠藩士の家に生まれる。藩から派遣されて大学南校(現東京大)に学び、明治新政府の官吏となる。米留学を経て、東京師範学校校長、音楽取調掛長を歴任。1895(明治28)年渡台し、台湾総督府学務部長に就任、近代教育導入に取り組む。貴族院議員も務めた。1917(大正6)年、67歳で亡くなられるまで、我が国が台湾を統治していた時代、住民の反乱や疫病が多発する地に「教育」を普及させようと熱意を燃やした人物です。その伊沢修二の生家のある長野県高遠町で私は小学4年まで過ごしました。二年前97歳で他界した母の自分史の中にも伊沢修二先生の事を誇らしげに書いてありました。
みなさんご存知の蝶々の作詞は伊沢修二によるものです。台湾では現在も卒業式の「定番曲」として『仰げば尊し』が広く使用されておりますが伊沢修二による作詞です。

仰げば尊し〜伊沢修二と台湾教育の創始者たち1995(平成7)年、台湾・台北市北郊にある「士林国民小学」の100周年記念式典が開かれた。陳水扁・台北市長(元・総統)も来校して祝辞を述べた。学校の展示室には歴代校長の写真が飾られている。初代は日本人・伊沢修二。100年前の明治28(1895)年、日本による台湾統治の開始と同時に伊沢修二が創設した芝山巌学堂をこの小学校の始まりとしているのです。芝山巌学堂の創設された翌年の正月、日本人教員6名が土着の匪賊に惨殺されるという痛ましい事件が起きましたが、この犠牲者を祀る「六士先生之墓」は、戦後蒋介石政権によって破壊されていたのだが、士林国民小学の校友会の手によって立派に再建され、この式典には「六士先生」の遺族縁者も日本から招かれたとの事です。その5年後の105周年には、同じく校友会により「国民教育発祥の地」という石碑が校庭に建てられましたが、台湾の人々は100年も前の日本統治時代の教育者たちの事績をなぜこれほどまでに顕彰するのでしょうか?

伊沢修二は台北の北郊の士林の街にある小高い丘・芝山巌にある廟を借りて、学堂とした。地元の有力者を集めて「自分たちがここに来たのは戦争をするためでも、奸細(探偵)をするためでもない。日本国の良民とするための教育を行うためだ」と説いた。地元民たちは半信半疑ながら、10代後半から20代前半の子弟を6名を出してくれた。生徒の一人、16歳の潘光楷は、後に次のように書いている。最初の教室は芝山巌廟の後棟楼上に設置せられ、余は此教師の一人と起居を共にしたり、学堂では日本人教師と台湾人生徒が同じ部屋で起居・食事をともにし、日本語教育だけでなく、礼儀作法なども含めた全人教育の場とされていた。生徒全員がすでに漢文の素養があったので、短期間の速習で日本語の習得を終えた。わずか6人の修了式のために数十名の軍楽隊が門出を祝ったのは、芝山巌での教育を見て感銘を受けた角田海軍局長の配慮であったようだ。

潘光楷は、後に士林街の街長を務め、さらに州議会議員となっている。卒業生は各地区に設けられる学校の教師や、公務員として巣立っていった。
伊沢修二は、海外領土での教育事例を調べるために、フランスのインドネシア教育局長に話を聞いたことがあった。フランスはインドシナを統治する際に、フランス語でフランス風の教育を実施したが、住民の抵抗にあって失敗したという。またあるイギリス人は伊沢に助言して、植民地の住民に教育の必要はない、なまじ教育を施せば、本国に反攻する者を育てることになる、と語った。植民地を経済的に収奪するなら、この愚民政策がもっとも効果的・効率的なやり方であろう。伊沢修二は、台湾においては、フランスのように宗主国の言語・文化を押しつけるのではなく、またイギリスのような愚民政策でもなく、第三の「混和主義」を採るべきである、と主張した。これは「我れと彼れと混合融和して不知不識(知らず知らず)の間に同一国に化して往く仕方」である。台湾は日本が経済的な収奪を行う植民地ではなく、北海道や沖縄、樺太と同じ「新附の領土」であり、その人民は民族こそ違え、日本国民同胞として遇するべきという考え方が根底にあったと云う。それにはまず日本人と台湾人が相の言語を学んで、互いを理解していくことから始めなければならない。また孔子廟など、台湾人の尊崇する文化・宗教を尊重する事を方針とした。
興味深いのは伊沢がこの時点ですでに「台湾人」と呼び、「遼東あたりの」清国人とは区別している事である。そして台湾人は人種的・文化的・気風的にも日本人に近く、まだ西洋文明を知らないだけで、その能力は日本人と同等である事が混和主義を可能にする前提をなすと考えた。統治開始後10年を経た明治38年時点で、台湾人の日本語理解者0.38%に対して、台湾在住の日本人の台湾語理解者は約11%。伊沢の混和主義は着実に実現されていったのである。
明治29年正月、伊沢が講習員(教員)の募集のために帰国している間、留守を守る楫取道明以下、6名の日本人教師は台北・総督府での新年の拝賀式に出席すべく、生徒らとともに山を下りた。前夜から抗日ゲリラの騒ぎが伝えられており、一部の生徒は危険だと止めたのだが、楫取はこう答えて聞かなかったという。この危難の時にあたり、文力では敵に抗することのできないことを知って若しこれを避ければ、臣子の道を失することになる。我等の命運は天に任せるほかはない。すべてを吾らの職務のために尽くし、職務と存亡を共にするのみである。
船着き場に着いたが、前夜来のゲリラ騒ぎで船がなかった。やむなく、楫取等は生徒を解散させ、一度学堂に戻った後、士林の警察署に合流すべく再び山を下りる途中で、百余名のゲリラに遭遇し、防戦空しく惨殺された。ゲリラ等は日本人の首で賞金が貰えるとの噂を信じて、6人の首級をあげ、所持品・着衣を奪い、さらに学堂に上って略奪に及んだ。
「故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば」 難を知った伊沢は悲嘆にくれたが、今日のように簡単に戻れる時代ではない。やむなく日本で講習員募集の任務を続けた。2月11日の講演で伊沢は六氏遭難について次のように語った。
さて斯く斃(たお)れた人々の為には実に悲しみに堪えませんが、此から後ち台湾に行って、即ち新領土に行って教育をする人は、此の度斃れた人と同じ覚悟を以て貰わねばならぬと信じて居ります。如何となれば、若(も)しや教育者と云うものが、他の官吏の如きものであるならば、何の危ない地に踏み込むことがござりませう。城の中に居れば宣(よ)い話である。然るに教育と云ふものは、人の心の底に這入らねばならぬものですから、決して役所の中で人民を呼び付ける様にして、教育を仕やうと思つて出来るものではない。故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば、教育の仕事と云ふものは出来ませぬ。此の如くして、始めて人の心の底に立入る事が出来やうと思います。この事件の前から、伊沢は次のような発言をしていたと云う。
台湾の教化は武力の及ぶ所ではなく、教育者が万斛の精神を費やし、数千の骨を埋めて始めてその実効を奏することができる。この言葉に示された教育者の在り方を、台湾では「芝山巌精神」と呼ぶようになった。後に芝山巌神社が創設され、台湾教育に殉じた日本人と台湾人教育者が祀られた。昭和8年時点では330人が祀られ、そのうち24人が台湾人教育者であった。
    「母との今生の別れ!」
伊沢修二が台湾での教員募集の計画を新聞で発表すると、大きな反響があり、800名もの応募があった。しかし芝山巌事件の悲報に朝野は大きな衝撃を受けて、500人もの辞退者が出た。一次試験は各県の郡役所で行われ、その合格者を東京で伊沢自身が面接して、45名を採用した。その一人に京都府舞鶴近くで小学校校長をしていた坂根十二郎がいた。坂根は22日午後10時に二次試験の知らせを電報で受け取ったが、京都駅まで25里を歩き、そこから汽車で上京する。試験日の25日に着くには翌朝には出発しなければならないので、学校関係者には書き置きをし、郡長を深夜に訪れて許可を得、それから家に帰って母に許しを乞うた。母は神棚から守り札を出し、これを肌身につけて「神明の加護によりて息災延命なれ」と言った。七十を過ぎた母とは今生の別れになると思うと、涙が止まらなかった。親戚一同とも別れの杯を交わして23日未明に出発、夜11時に京都駅に着いて夜行汽車で上京、24日午前11時に新橋駅に着いた。25日に2次試験があり、その翌日、合格発表があった。伊沢は芝山巌事件を詳しく説明して、心配な者は取りやめても差し支えない、それでもなお進んで行くことを希望する者は申し出るようにと言うと、合格者45名全員が台湾行きを希望して、伊沢を感激させた。坂根はすでに小学校長の身で、生活のためなら、わざわざ母親と永久の別れをしてまで危険な任地に行く必要はなかったはずである。その動機として、学校関係者に残した書き置きには次のように述べている。
「台湾島新附民を教育すべく、之が教員を募集せらるるに会す、せめてはその末席に加り以て奉公の万一を尽くさん事を期せんとす」新領土・台湾の地に近代教育を広めて、その「新附の民」を等しく日本国民として迎え入れようとすることは、当時の国家的大事業であった。その一端を担おうという「奉公」の精神が坂根らを動かしていた。
「美しい師弟愛」伊沢修二に連れられた第一回講習員45名は、4月11日に芝山巌に着いた。2ヶ月半あまり、伊沢の教えた台湾人生徒らについて台湾語を習い、ほぼ日常会話が出来る程度に上達した。7月1日、卒業式の後、講習員は台湾各地に設立される14カ所の国語伝習所に発っていった。ここで日本語をまったく知らない台湾人の子弟を台湾語で教えるのである。坂根十二郎は台南国語伝習所の教諭となった。10月7日、開所式。甲科生50名は年齢20歳以上で、通訳、公官吏を養成する目的で毎日25銭を支給した。乙科生60名は7歳以上、今日の公学校教育と同様だが、毎日10銭を支給することで定員を満たした。当時1銭で大きな餅が3個も買えたという。一方、教員・職員たちは8畳間に5人で生活するという節約ぶりであった。限られた予算を生徒の手当てに回してまで教育を広めようとしたのである。このような各地の国語伝習所が公学校に発展していった。今日の台湾の伝統校の初代校長は、坂根のような講習員が多いという。伊沢や坂根らの熱誠あふれる教育者精神は、師に対する礼に厚い台湾人の伝統と相俟って、各地で美しい師弟愛を咲かせた。ある台湾人生徒は、公学校で教わった日本の恩師の事が忘れられず、戦後、日本への渡航が許されるや訪ねていった。しかし手がかりは恩師の出身だと聞いた鹿児島のある町の名だけである。その生徒は竿の先に恩師の名前を大書して、その町の駅で誰彼なしに「この先生を知らないか」と聞いてまわった。たまたま地方新聞の記者が通りかかって、その心根に感動し、恩師を探し出してくれたという。
台湾の老人たちが日本統治時代を懐かしく思うのは、このような師弟愛が随所に咲いていたからである。そしてそれが語り継がれて若い世代でも親日感情を抱いている人が多い。台湾のような豊かで自由な隣国が親日感情を持ってくれている事の意義は計り知れない。伊沢や坂根のような我が先人たちの恩は、まことに「仰げば尊し」と言うべきである。

この文献は『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』
著者/伊勢雅臣 発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。新北市立図書館本館にて閲覧

tecoさんの云われる黄文雄さんの著書の中に、「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」があり、黄文雄さんが、わかりやすく解説しています。「日台は運命共同体だ」と述べ、さらなる関係性の強化を求めました。今後さらに「日台」の絆を深めつつ行うは何なのでしょうか? と問いかけている様なきがしました。また長文になってしまいました。申し訳ありません。








フェースブック

No.4511 投稿者:ふき  投稿日:2019年06月15日(土) 19時39分19秒

tecoさん、こんばんは。

tecoさんは謙遜されていますが、私などから見れば、やはり「台湾好き」以上です(笑)。
フェースブックに集まる人々はそれこそ多種多様。国籍、年齢、趣味、感性が異なる人々が友達になったりすることもしばしばです。
tecoさんがせっかく貴重な話題や体験を公表しても、「早安」や「晩上好」のプレート画像一枚で反応する人が大部分だと、私などは正直ガックリしますが、tecoさんはそれでもひとつひとつに丁寧なレスポンスを返しているのを見ると、尊敬してしまいます。

プレート画像はともかく、コメントの書込みに関して、何もしない人もいますが、それはさすがに書いた人に失礼です。あまりに親しすぎて、気心が知れている場合を除いて、やはり最低限の意思表示はすべきです。
私はフェースブックの友達が提供した話題にある時コメントを書き込んだことがあります。おそらく喜んでくれるだろうと思って、書き込んだのですが、まったくの無反応でした。しかもその後その人は別の話題を次々にアップして、私のコメントは完全に無視されたことになりました。どんなコメントも貴重な時間を割いて、作成されているのです。それに対して、知らんぷりでは、もう「友達」を続けることはできません。一週間くらい様子を見て、私はその人を「友達」から削除しました。
掲示板なら、文章を投稿するという「面倒な」作業がありますが、フェースブックなら、「いいね」や「ひどいね」をクリックする一瞬の作業で、意思表示ができるのです。それもせずに放置となると、「無関心」か「傲慢」のどちらかです。ちなみにその「友達」というのは、相手からの要請でなったもので、私のほうから要請した人ではありませんでした。

ただ、フェースブックの世界は広く、いろいろな価値観を持つ人がいて、参考にはなります。私はほとんど「読むだけ/見るだけ」派ですが、当分それなりに活用して行こうと思っています。


Re:初七日

No.4510 投稿者:ふき  投稿日:2019年06月15日(土) 19時03分02秒

A Bengさん、こんばんは。

新しい生活が始まると思いますが、以前にもまして台湾とのかかわりが深まることを期待しています。

Re:台湾の今昔

No.4509 投稿者:ふき  投稿日:2019年06月15日(土) 19時02分25秒

葛さん、こんばんは。

実をいうと、私は子供の頃は好奇心と探究心が強かったので、歴史家志望でした。しかし、その後は全然関係のない人生を歩みました。おそらく多くの人がそれぞれ紆余曲折の生き方をしているのではないかと思っています。私と台湾のかかわりはほとんど歌とカラオケくらいで、それに申し訳程度に観光が加わる程度です。人生はドラマですね。葛さんの台湾とのかかわりは、私に比べて100倍も濃く、お話のひとつひとつを新鮮な気持ちで興味深く読んでいます。結果、私のささやかな台湾の知識がだんだん厚くなったような気がします。
台湾も日本も変わっています。いや世界が変わっています。これから台湾や日本がどうなり、またいったいどこに向かっているのか。それを考える上で、過去の歴史は参考になります。これからもお時間の許すかぎり、いろいろと台湾のことを教えていただければ幸いです。

台湾トレンド

No.4508 投稿者:teco  投稿日:2019年06月15日(土) 10時33分30秒

ふきさん、葛さん、みなさん、おはようございます。

私は台湾出身のジャーナリスト黄文雄氏のメールマガジンを購読しており、氏の講演会にも何度か参加しています。
台湾や日本を取り巻くアジア情勢を的確に分析し、判断材料を提供してくれますので、台湾の友人たちとの会話にもついて行けます。
また、台湾在住の作家の片倉佳史氏のメールマガジンも購読し、台湾各地の風習や文化、日本統治時代の文物の知識も少しずつですが勉強しています。
しかし、実際に歩いて現地をこの眼で見たり、現地の方々の話を直接うかがったことは少なく、単なる知識でしかありません。
これからは台湾の各地を訪問し、図書館や博物館にも顔を出して実際に見聞きしたいと思っています。
私も若いころから台湾にかかわり、多くの人に親切にしてもらって現在に至っていますので、台湾は第二の故郷と言う感じで接しています。
これからもよろしくお願いします。

私が台湾に拘る理由(訳

No.4507 投稿者:葛(新北市)  投稿日:2019年06月15日(土) 07時10分05秒

tecoさん、お早うございます。

コメントを頂き有難うございました。私は板橋で生活する中で、本当に先人の日本人に対する尊敬と感謝の念のお話を聞くたびに日本人としての誇りを感じています。しかしこのことを皆さんに伝えても文章を読む苦痛を与えるだけではないかと感じています。新北市立図書館本館では日本に関する資料が想像以上に所蔵されていました。現在も台湾の方々に日本が愛されていると云う実感が伝わッてきます。
機会があったリ、興味がありましたら是非閲覧してみて下さい。今の日本の政治家は何を考えているのか?国民に奉仕すると云う精神は何処へ行ったのか?先人に学んで欲しいと思います。
投稿しても長文になるだけですので、控えておきます。tecoさんのコメント嬉しく拝見いたしました。

昔の台湾

No.4506 投稿者:teco  投稿日:2019年06月14日(金) 22時44分28秒

葛さん、こんばんは。

私は台湾とのかかわりは40年以上になりますが、仕事で滞在した台南や高雄や台北、そして、観光地と言われるところ以外はほとんど知りません。
現地の人に案内してもらい、外国人観光客があまり行かないところにも連れて行ってもらいましたが、
今となってみれば特に人様にあれこれ言えるほど知っているわけでもなく、やはり台湾好きなだけなんでしょうねえ(笑)
ひところ道教に興味をもち、道士のまねごともしましたが、世捨て人にならないとだめそうなのでいまだに半俗状態です(笑)
昔の台湾事情はとても感心があり、葛さんのお話も相槌は打てないまでも楽しく拝見しています。
台湾語の歌も好きで事あるごとに歌っていますが、
みなさんの話題にはついていけるほど知っていませんので、お聞きして楽しんでいます。
フェースブックでの友達は100人くらいいますが、そのうち90%は台湾人です。
実際に顔を突き合わせて話をした人は10人くらいで、あとはどこに住んでいるのかさえ分からぬ人たちがほとんどです。
可もなく不可もない、日常のあいさつをグダグダし合っているのがバカバカしくなってきて、そろそろやめようかな?などと思っています。
その点、この掲示板はいいですね。
話の内容が深く、興味ある話が聞けるので楽しいです。
葛さん、どんどん投稿ください。
なかなか合いの手を入れられませんが、楽しく拝聴しています。
今後ともよろしくお願いします。

初七日

No.4505 投稿者:A Beng  投稿日:2019年06月14日(金) 10時35分43秒

ふきさん tecoさん、皆さんコメント。ありがとうございます!
今までの、生活パターンが変わるので、心身体が馴染むまで時間がかかると思います。これからは、自身の健康に留意して、これからの良いことを期待しつつ頑張って行きたいと思います。

台湾の今昔

No.4504 投稿者:葛(新北市)  投稿日:2019年06月14日(金) 00時41分52秒

ふきさん、tecoさん、みなさん、こんばんは。

この頃思う事があります。私が台湾に携わる様になって半世紀になりますが、最近台北を歩いてみてしみじみ周りの景色がすっかリ様変わりして行く事です。台湾歌謡三昧に出会えてとても幸せな気持ちにさせて頂きました。また投稿を通じて皆さんに接する事も出来ました。しかしこの頃投稿しても皆さんからコメントを頂くことに躊躇するようになりました。私が出会えた頃の台湾と、現在の台湾は想像を超える発展があり、みなさんに投稿して頂くコメントには何か迷惑をかけるようなギャップを感じつつ古き時代の台湾を伝えても虚しさを感じています。また最近の投稿は何故か私一人が投稿している様な感じがしています。
旅を通じて台湾を知ったふきさん、ビジネスを通じて台湾に接したtecoさんに古き時代の台湾の話をしても迷惑かも知れません。この頃年齢を感じます。
若い人に昔の台湾を話しても理解されないことが多々あります。台湾歌謡についてもなかなか話題がかみ合いません。鳳飛飛、江宸ネどの話は勿論台湾語でさえ通じない事もあります。これからは新北市で暮らす以上ここに馴染むような生活をしなくてはなりません。ですからこれからは、古き時代の台湾をリポ―トして、皆さんに紹介することは辞めます。コメントを頂くことも迷惑をかけることになり、申し訳ありませんでした。
近日中に免許証の更新と認知症のテストを受けるため日本に戻ります。最近日本での老人の運転に関する事故が多発しているニュースは台湾でも報じられています。私自身80歳にはもうすぐ到達します。免許証の返納も考えなくてはなりません。これからは古き良き時代の台湾に思いを馳せつつ過ごせたら最高です。お陰で板橋にも多くの友人が出来ました。日本をリタイヤされたご夫婦や商社を退職されそのまま板橋に永住をされた方とも出会えました。先日も台北駅周辺や漢口街にも行きましたが、懐かしいと云う雰囲気は感じられませんでした。

私が皆さんに紹介する投稿記事は台湾の日常的な出来事や生活の知恵、台湾人の人情など旅行で台湾へ訪れる皆さんにはあまり役立つ情報はありません。
自己満足をしているわけではありませんが、これからはガイドブックにない台湾を探してみて下さい。



訂正

No.4503 投稿者:葛(新北市)  投稿日:2019年06月14日(金) 00時15分56秒

月夜嘆は1930年の作品です。訂正してお詫びいたします。

月夜嘆は1030年の作品です

No.4502 投稿者:葛(新北市)  投稿日:2019年06月14日(金) 00時14分28秒

みなさん、こんばんは。

私が知る知識で投稿して見ました。ふきさんの様に詳しくは存じませんが参考にして下さい。
月夜嘆は作詞陳達儒、作曲陳秋霖で1930年の作品です。1937年、日中戦争が勃発した後、彼は、日本人に残っていた台湾の劇作家3人とともに、日本軍の文芸工作隊に参加し、西洋風の演奏を聞かせてくれたそうです。因みに陳秋霖の作品の中には下記の作品があります。皆さん良くご存知の曲があると思います。

《可憐青春》
《滿山春色》
《路滑滑》
《海邊風》
《白牡丹》
《中山北路行七擺》
《南都夜曲》
《月夜嘆》
《心糟糟》
《賣菜姑娘》

1992年に81歳で亡くなるまで活動しました。
陳秋霖の顔は台湾の琴楽士、作詞者、作曲家、レコード製作者、映画製作者、プロデューサー、映画製作者、脚色者など多面で活動されたそうです。
月夜嘆はは1930年の曲です。私も鳳飛飛の歌で覚えました。間違いでしたらお許しください。

お久しぶりです

No.4501 投稿者:ふき  投稿日:2019年06月13日(木) 23時36分24秒

たんげさん、こんばんは。
「雨夜花」をはじめとした台湾の戦前の創作歌謡はほとんど1930年代(主として1933年〜1939年)に発表されました。1940年代になると戦争のために歌謡曲どころではなくなりました。そんなわけで、1930年代というのは台湾の創作歌謡の揺籃期だったので、台湾では特別な時代なんでしょう。「三〇年代日治時期」がまさにそれです。
「月夜嘆」は鳳飛飛の歌で覚えましたが、蘇宥蓉の歌もいいですね。名曲はいつまでも歌い継いで行って、ほしいです。






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