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日本時代の戸籍

No.3743 投稿者:ふき  投稿日:2017年09月30日(土) 23時09分33秒

葛(新平市)さん、こんばんは。
私は子供のころから歴史学が好きでしたので、どんな話も脱線してしまうきらいがあります(笑)。
日本による台湾と朝鮮の統治形態は西洋列強のそれとはまったく違っていました。彼らの「植民地」経営とは突き詰めていえば経済的な搾取の一言です。現地の住民の生活向上のために何かをするという発想はまったくありませんでした。日本の場合は被支配地域に道路や橋を作り、また学校や病院を建てて、衛生面の改善や教育の普及のため、莫大な予算をつぎこみました。戸籍を作ったのもその目的の一環です。たしかに総督府が置かれ、内地とは異なる法体系が施行されたので、植民地と言えなくもないですが、いずれ日本本土に組み込む予定だったと思われます。そうでなければ、あれだけの投資はしなかったでしょう。そのおかげで、戦後の台湾と韓国の発展は驚異的でした。欧米列強の東南アジアやアフリカの植民地の状況と比べれば一目瞭然です。
さて、また脱線しそうですが、幕末に日本に来た西洋人が日本人の顔立ちを見て、日本には主として面長で色白な長州型と顔が四角で色浅黒い薩摩型の二種類の日本人がいると言っていました。たしかに日本人に金髪碧眼はいませんが、いろいろな顔立ちが混在しているのも事実です。縄文人の特徴としては「顔が四角い」「眉毛が太い」「二重瞼が多い」といわれていますので、どうもこの場合は薩摩型になりそうです。この手の顔は東北にも結構多いそうです。
ただ、日本の海人族が中国大陸や台湾、フィリピンに進出した可能性については、私は懐疑的です。歴史時代になってからならいざ知らず、縄文時代の航海技術はまだ未熟で、潮の流れに乗らないと、移動は厳しいと思われます。やはり南から北に上がって来たと考えるのが自然です。
私は台湾から日本にやって来た南島系の人々が縄文人の祖先と考えています。縄文人は沖縄から九州に上陸し、やがて本州、東北に至り、日本列島のほぼ全域に拡散しましたが、その後おそらく朝鮮半島から新たに日本にやって来た弥生人により駆逐され、また同化されて、日本原人を形成する一員になったのかも知れません。
朝鮮半島方面からやって来た弥生人の言語が現在の日本語につながりますが、音韻的には縄文人の発音習慣が残ったと考えられます。日本人がのちに古代中国から膨大な漢語を輸入する前の日本語は1子音に対して1母音という非常に単純な音節構造でした。このような基本構造を持つ言語は、ハワイなどのポリネシア諸語にありますが、彼らも以前はインドネシアあたりから移住して来た海洋民族の末裔です。
おっと、私はこういう話が大好きなので、一晩中でもやってしまいそうなので、このあたりにしておきますが、古代日本にはほんとにダイナミックな物語があったことでしょう。この話の続きはまたの機会に(笑)。

台湾の戸籍謄本

No.3742 投稿者:葛(新平市)  投稿日:2017年09月29日(金) 20時43分50秒


ふきさん、みなさん、こんばんは。
台湾の戸籍謄本は日本のものと酷似していて、日本の統制時代に政令されたという事です。
私の戸籍簿は戸籍番号が記載されているIDカ−ドに
亡き女房との婚姻届が記載されています。
戸籍データは1997年に全面電子化されています。

ふきさんの縄文人の故郷のタイトルのように、かつての済州島や台湾は日本民族の1つ海人族安曇氏(海洋漁労民の国であった。縄文時代あたりには、彼らは中国大陸や日本列島の内部まで進出し、陸上の縄文人達と共に東アジアを広く交流する海洋漁労民であったと記載されている文章を見ました。
戸籍謄本制度は、台湾、韓国で同様の形式を見ましたが、日本統治時代に定められた戸籍法が現在も引き継がれているようです。中国の戸籍謄本も研修生が来日するときに書類に添付されますがいくらでも偽造可能で本人と確認する事は不可能です。
最近の掲示板の内容は、専門的な文章が多々あり私のような知識がないものには難しく感じます。
しかし勉強になります。

縄文人の故郷

No.3741 投稿者:ふき  投稿日:2017年09月15日(金) 22時34分43秒

葛さん、梧棲さん、みなさん、こんばんは。
台湾の話がかなり濃くなりましたね。私も以前は時々映画を見に行ったものですが、最近はほとんど行きません。私が住んでいる町に昔は小さな映画館が3軒あったのですが、もうつぶれてしまったのが理由です。ビデオが普及し出して、壊滅的な打撃を受け、さらにインターネットの追い討ちで、全滅です。地方によっては、固定客がある程度いるところでは細々と経営しているところもあるようですが、客数が少なく相当苦しいでしょうね。映画はもうシネマ・コンプレックスのような大型レジャー施設でしか見ることができない時代です。もっともこれは日本だけでなく、台湾も似たようなものではないでしょうか。また作品がDVD化されたとしても、台湾モノを日本で探すのは一苦労です。ツタヤで簡単にレンタルできればいいのですが、なかなかそういうわけにも行きません。

さて、日本統治時代の戸籍がいまだに台湾に残っているというのもすごいですね。台湾の行政機関は大したものです。早くから機械化を進めていたのではないでしょうか。台湾の原住民の人々は日本統治時代になり、初めて戸籍が作られたと思われます。当時の日本の役人もよく「平埔」あるいは「熟蕃」などを認定して、記録に残したものだと感心します。ところで中国語の「先住民」は「元々その地に住んでいたが、今はもう滅んでしまった民」の意味なので、現在もなおそのまま台湾に住んでいる高砂族(山地族)の人々は「原住民」となりますね。
ちなみに私は言語学にも興味があるので、調べましたが、高砂族の話す言語は、フィリピン諸語、インドネシア諸語に非常に近いです。たとえば数字の「5」を台湾のタイヤル語で「lima」と言いますが、フィリピンのタガログ語もインドネシア語もまったく同様に「lima」と言います。先日、日本の縄文人の故郷がインドネシアではないかという番組をテレビで見ました。そして復元された縄文人の顔立ちを探しに、インドネシアのある島に行ったのですが、そっくりの人がいっぱいたということでした。海洋民族なら、黒潮に乗って、そのくらいの移動は十分考えられます。そうなると、台湾の高砂族がさらに北進して、南西諸島経由で日本の縄文人になったということも考えられます。これも将来、DNAの研究が進めば、解き明かされることでしょう。

台湾の戸籍

No.3740 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年09月13日(水) 11時57分58秒

皆さん、こんにちは。
湾生回家に関する件で一つ書き忘れていました。それは湾生やその子孫が台湾を訪問した時に台湾にある湾生の戸籍を見つけてもらえることです。【Yahoo台湾ニュース】にはこの事例が毎年のように紹介されています。
 日本統治時代に日本政府は台湾にも戸籍制度を導入し、日本が撤退後も台湾では戸籍制度が存続しています。私は蒋介石・国民党政権になってからは台湾にある日本人の戸籍は廃棄されたのではないかと思っていましたが実際には現在でも各市・鎭・郷の戸政事務所に保管されているようです。

【Yahoo台湾ニュース】
『台湾旅行のはずがルーツ探しの旅に 湾生の男性、戸籍を目に感激』  7/14(高雄 中央社)
観光のために台湾を訪れていた湾生の男性が、ふとした思いつきをきっかけに自身の戸籍資料を手にする出来事があった。男性は感動で目頭を熱くし、もう一度子や孫を連れて訪台し、父母の記憶を手繰りたいと語った。
この男性(75)は日本統治時代に南部・高雄市で生まれた。父親は技術者、母親は小学校の教師で、一家は男性が1歳のとき日本に引き揚げた。男性はこれまで仕事で台湾を幾度も訪れていたが、ルーツ探しにまでは至らなかったという。
12日、南部・台南で観光をしているときにふとルーツをたどってみたくなり、台湾人の友人の助けを借りて、出身地である高雄の戸政事務所(戸籍業務を担当する役所))に問い合わせてみたところ、10分ほどで一家の資料が見つかったという連絡を受けた。
男性がすぐさま高雄に向かうと、同所の職員から丁寧にカバーが付けられた資料を手渡された。男性は台湾の行政機関の効率の良さにも舌を巻いたという。(王淑芬/編集:塚越西穂)

 また日本統治時代の戸籍は湾生のアイデンティティを証明するだけでなく、原住民であることを証明するのにも利用されています。
 台湾原住民の中で平埔族は早い段階に漢族に同化されたために戦後の台湾では原住民に分類されていませんでした。台湾政府は先月、平埔族も原住民として認定することを閣議決定しました。平埔原住民として認定されるためには日本統治時代の先祖の戸籍に「平埔」あるいは「熟蕃」と記載されていることが必要とあります。

【Yahoo台湾ニュース】
『平埔原住民を先住民の分類に追加へ 改正案が閣議決定』  8/18(台北 中央社)
政府は17日、これまで先住民として承認していなかった平埔族群(エスニックグループ)を「平埔原住民」として認定する原住民身分法改正案を行政院院会(閣議)決定した。
平埔族群は台湾西部を中心に平地で生活する先住民の総称。ケタガラン族やシラヤ族など複数の民族が含まれる。平埔族群は長年にわたり、政府に公認を訴えていた。
原住民身分法は先住民の身分を認定し、権利を保障する法律。現行では、先住民の分類が「山地原住民」と「平地原住民」の2分類のみになっている。改正案ではこれに「平埔原住民」が追加されたほか、平埔原住民の文化や言語、政治など各方面における客観的ニーズに合わせ、法律で権利を定めることも規定された。
改正法が成立すれば、日本統治時代の戸籍資料に「熟番」あるいは「平埔」と記載されている直系尊属がいる場合、「平埔原住民」の身分を申請できる。改正案は今後、立法院(国会)で審議される。
(顧セン/編集:名切千絵)




映画「湾生回家」を見ました。

No.3739 投稿者:葛(新平市)  URL  投稿日:2017年09月10日(日) 20時22分33秒

ふきさん、tecoさん、梧棲さん、こんにちは。
この映画は多くの台湾の皆さんも鑑賞されたと聞きました。私自身湾生の皆さんともお付き合いがあります。自分自身湾生のような気がしています。
年齢が上がるたびに涙腺が緩くなっています。この映画は涙なしでは見る事が出来ません。
先日所用で嘉義に行きました。皆さんも良くご存知の甲子園の高校野球で優勝を遂げた嘉義農林高校に立ち寄る事が出来ました。
【KANO 海の向こうの甲子園】の案内が梧棲さんの投稿にありました。嘉義農林野球部の最大の特徴は原住民、中華系住民、日本人の混成チームであったことだ。当初は弱小チームだったが、元愛媛・松山商業監督の近藤兵太郎氏の特訓により強豪校になったのだとの事です。このチ―ムで活躍された、呉さん、東さんの親戚の方と偶然お目にかかる事が出来ました。特に自慢できる選手は中央の呉明捷選手はエースで4番。早稲田大学に進学し東京六大学野球でも活躍した事です。
現在は国立嘉義農大野球部に資料が展示されています。https://www.youtube.com/watch?v=PvBvkp-r4C4
台湾での私の生活は日本にいる時よりも充実しています。残念な事は台湾語を話す若年層が少なくなっている事だそうです。




終戦から72年

No.3738 投稿者:ふき  投稿日:2017年09月05日(火) 20時17分23秒

梧棲さん、こんばんは。
私は梧棲さんより7年遅れで、この世に「出現」しましたが、戦後の貧しい時代は、やはり少しですが経験しています。そもそも私の父母がまさに満州からの引き揚げ者なので、その苦労は私が物心ついてから、よく聞かされました。梧棲さんのおっしゃる通り、自分の実家に転がりこんでも、親はともかく、兄弟たちからは完全に邪魔者扱いされましたからね。ほんとに辛い時代でした。
朝鮮や満州に比べれば、南の台湾からは比較的スムーズに帰って来れたことと思います。やはり暖かい地方の人々は心も温かくなるのでしょうか。フィリピンやインドネシアのジャングルの中で見つかった旧日本兵も、温暖な地だからこそ、村人の情けや森の恵みにより、生き延びられたともいえます。おっと、湾生とはあまり関係のない話で、すみません。
それでも終戦から72年が経ちました。日本語世代の台湾のお年寄りもだんだん少なくなって来ていますが、その公学校時代の日本人の〇〇先生はさらに少ないはずです。同窓会ができただけでも奇跡的で素晴らしいことですね。

湾生回家

No.3737 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年09月03日(日) 14時20分45秒

みなさん、こんにちは。 
久しぶりに掲示板を見たら「湾生回家」のことが話題になっていました。
 台湾の友人達は日本人も関係した台湾映画のDVDができると私に贈ってくれます。
これまでに【海角七號】、【KANO 海の向こうの甲子園】、【湾生回家】をくれました。
更に私が台湾に行った時に民視テレビの『台湾演義 :湾生日本人 2015.08.02』の録画もくれました。

 1942年生まれの私が物心がついた頃の日本には周囲に「引揚者」と呼ばれる家族がいました。日本の敗戦で満洲、朝鮮、台湾など日本の植民地から日本へ引き揚げて来なければならなかった家族たちです。
敗戦後の日本は明治維新以降最も貧しい時代で、日本にいる家族も食うや食わずの暮らしなのに突然海外から親、兄弟、親戚を頼って別の家族が戻って来るのですから、引揚げ者たちの多くは実質的には邪魔者扱いされたと言えます。
家が狭いために納屋や家畜小屋に住まわされた引揚げ者家族も少なくなかったと思います。
日本人の心も最も貧しかった時代だったと私は思います。

私の小学校の同学年に満洲、朝鮮以外に台湾からの引揚げ者の子弟もいましたが、私は当時は湾生という言葉は知りませんでした。
台湾生まれの同級生は台湾はよいところだったと語っていました。特にバナナが好きなだけ食べられたという話は、まだ一度も食べたことがない私達には夢のような話でした。
日本への引揚げはスムーズに進んだのではなく、数年遅れた家族の子弟には既に小学校入学年齢を過ぎてしまい1〜2年遅れて入学せざるを得なかった者もいました。同学年なのに身長がずば抜けて高い生徒は大抵引揚げ者の子弟でした。歴史の不運とは言え、1〜2歳下と同じ学年にされるのは屈辱的なことだったろうと思います。

 やっと祖国に帰ることができると期待していた引揚げ者たちは実家や親戚からの期待を裏切る対応に失望したことだと思います。
満洲や朝鮮からは植民地住民達の復讐を懼れて命からがら引揚げてきた人が多いようですが、台湾からは友人、知人であった台湾人との別れを惜しんで引揚げてきた人が圧倒的に多いので、湾生にとっては祖国の日本よりも自分が生まれ育った台湾の方が遥かに温かくて自分の本当の故郷だと強く意識するようになったようです。
 日本の庶民が海外旅行が容易にできるようなったのは1970年代後半ですから日本に引き揚げてきてから25年以上は台湾には行くことができなかったと言えます。
10歳で引き揚げた湾生は30代後半から海外旅行ができるようになったと言えますが、家族を養わなければならない時期ですから多分60代になってからやっと生まれ育った台湾を訪れるようになった方が多いのではないでしょうか?
 湾生が故郷を訪れてまだ生存中の旧友と再会できたり、故人となった友人の家族と会ったりしているシーンは台湾だからある話だと思います。満洲や朝鮮ではこのような話はほとんど見聞しません。
今でも日本語世代の台湾の友人には戦前の公学校時代の日本人の〇〇先生を慕っていると語る人が少なくなく、旧制中学や女学校の同窓会で日本人同級生との再会を楽しみにしている人が多いです。

台湾語

No.3736 投稿者:ふき  投稿日:2017年08月30日(水) 22時18分49秒

葛さん、tecoさん、こんばんは。
お二人とも生活や仕事の面で台湾へのかかわり方が長く、私などはいつも貴重なお話をありがたく聞かせてもらっています。「湾生」の方々などはさらに台湾への愛着心が強いことでしょう。なにしろ生まれ故郷ですからね。ふるさとは誰でも心の底に眠っています。私と台湾の付き合いは、たまたま旅行だけなので、お二人に比べると、かなり軽いものです。
台湾語を勉強したきっかけも単に台湾の歌が好きだったためです。台湾人と本格的に台湾語で会話をしてみようとして、始めたものではありません。台湾語を少しでもきれいに発音し、歌いたいと思えば、やはり日本のカナでは不十分なので、教会ローマ字も覚えました。そのための書籍も買いました。歌詞は韻文なので、会話とはまた違う要素もありますが、応用すれば、会話にも使えます。台湾に行くと、ほとんど北京語か英語の場面が多いですが、知っている台湾語はなるべく使うように心がけています。
ただ、台湾でも若い人の台湾語離れは顕著ですね。もともと文字を持たなかった言語は世界的に消滅の方向に向かっています。日本国内のアイヌ語や琉球語しかり。将来、台湾語が「歌の世界のみに残った」というようなことにならなければいいのですが…。
ところで、4月にフェースブックのアカウントを作成しましたが、今のところほとんど活用していないのが実情です。tecoさんを見習って、もっとアクティブに使えば、さらに楽しくなることでしょう。頑張ります(笑)。

ありがとうございました

No.3735 投稿者:葛(新平市)  投稿日:2017年08月30日(水) 10時41分12秒

tecoさん、みなさん、こんにちは。

tecoさん、ご指摘ありがとうございます。
湾生回家の会の皆さんは高齢化が進み集う事が難しくなり、今年7月を最後に終了したとの事です。
tecoさん、ふきさんはFacebookで多くの方と交流されてること羨ましいです。
10月にtecoさんは訪台されるとの事、機会がありましたらお目にかかれれば幸いです。

URLがまちがっています。

No.3734 投稿者:teco  投稿日:2017年08月29日(火) 16時05分16秒

葛さん、記入したURLが間違っていますので訂正します。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100016237034719

上が正しいURLです。

こんにちは

No.3733 投稿者:teco  URL  投稿日:2017年08月29日(火) 16時01分03秒

ふきさん、葛さん、みなさんこんにちは。

葛さん、こちらこそご無沙汰しております。
お元気にご活躍のご様子、なによりです。

湾生と言えば一人知り合いがいます。
村上さんといい、父上とともに苦労に苦労を重ねて台湾で基礎を築いたそうですが、終戦とともにすべてを失って日本に戻ったそうです。
父上の実家に戻り家業の家具屋を継いでどうにか暮らしを立てることができるようになったころ父上がなくなり、台湾への思いがますます募ったと言います。
台湾時代に世話になった人の紹介で台湾人の若い人を養子にもらい、日本で大学を卒業させて一緒に暮らしていましたが、その養子となった人が私の教え子なのです。
彼は村上さんが亡くなるまで献身的に尽くし、その後台湾人女性と結婚して現在は台湾の三重に住んでいます。
私は生前の村上さんとはほんの数回しかお会いしたことはありませんが、台湾での楽しかった子ども時代の話を聞かされ、台湾人に親切にされた思い出なども聞かされました。
村上さんの養子となった人は日本人として台湾で暮らしており、奥さんと二人の子ども父親として頑張っています。

昭和町は私も歩いたことがあります。
「美しい日本語を話す会」のメンバーである台湾人の友人に案内してもらいました。
当時の面影が色濃く残っているわけではありませんので、教えてもらわなければわかりませんが、そこここに往時の痕跡が散見されて懐かしい気分になります。
3月と5月に訪台したあと仕事が忙しくなりその後台湾には行っておりませんが、10月には一週間ほど行く予定です。
URLは私のフェースブックのURLです。
また、ふきさんのページやA Bengさんのページは以下の通りです。
ふきさん:https://www.facebook.com/profile.php?id=100015969587078&fref=pb&hc_location=friends_tab&pnref=friends.all
A Bengさん:
https://www.facebook.com/abeng035?pnref=lhc.friends

まだまだ暑い日が続きます。どうぞお身体大切にお過ごしください。

ご無沙汰しています

No.3732 投稿者:葛(新平市)  投稿日:2017年08月29日(火) 08時35分10秒


ふきさん、tecoさんん、みなさん、こんにちは。
新北に来てから無我夢中で働いています。もうすっかり生活にも慣れて楽しく過ごしています。
最近二つの短編映画と、その関連の書籍も拝見しました。「湾生と呼ばれた人生」「台湾語世代」のドキュメントです。また日本統治時代に昭和町と云われた町へ行きました。
台北市の南部にある地名です。現在の 大安区の青田街及び永康街、温州街、和平東路の一部にあたるそうです。永康街」近くにある、
「昭和町文物市集」に行ってきましたが、近くに
鼎泰豊があり時間があれば、少し足を伸ばしてここまで行ってみる事を良いかも知れません。
酒井充子監督「台湾人生」という映画で台湾で生まれ育った日本人を指しますが「湾生」たちが、故郷である台湾に里帰りし、懐かしい人びとを訪ねるドキュメンタリー。
パンフレットに記載された案内を転記します。
「1895年の下関条約締結から、終戦の1945年まで、日本の統治下にあった台湾。この時代に公務員や企業の駐在員、移民として海を渡った農業従事者などが日本から台湾へと移り住んだ。彼らの大半は日本の敗戦後、中華民国の方針により、日本本土に強制送還された。その数は50万人にもおよび、そのうち、台湾で生まれ育った「湾生」は約20万人といわれている。戦後72年で高齢化した「湾生」たちが、日本から生まれ故郷の台湾の地を訪れる姿を追い、彼らの人生、引揚者の思いが描かれる。本作は台湾のアカデミー賞ともいわれる金馬奨で最優秀ドキュメンタリー作品にノミネート、大阪アジアン映画祭2016で観客賞を受賞。
台湾は1895年(明治28年)から半世紀、日本に植民地支配されていた。台湾人に生まれながら、日本人として日本語で教育を受けた「日本語世代」は、どんな戦後を送ったのか。日本の撤退、国民党の圧政、民主化へ……歴史に翻弄された彼らの戦後を通し、台湾と日本の未来を探るドキュメンタリー映画。酒井充子監督は「台湾を日本が統治し、あの時代を背負った人々がいまも生きている。日本人はそれを知ったうえで、台湾と向き合ってほしい」と話しています。
先日台湾在住の資格がパスポート有効期限以内であれば可能だと聞きました。詳しい事は分かりませんが日本人であれば申請できるとの事です。
カラオケ店に行くとお客さんから日本の懐メロをリクエストされます。図に乗って岡晴夫や春日八郎、
及川三千代の曲を歌いました。
ふきさん、tecoさんの投稿を拝見して台湾語に対しての知識の豊富さに書き込みを躊躇してしまいます。現在日常の会話には支障はありませんが、兎に角会話するとき略して話をされるので分からなくても分かったようなふりをして聞き流しています。
私が日本人と認識されたうえで本当に優しく接して頂けるので、改めて台湾が好きになりました。









お久しぶりです

No.3731 投稿者:ふき  投稿日:2017年08月20日(日) 23時20分33秒

梧棲さん、みなさん、こんばんは。
台湾の朝の「賢早」(gau5 cha2)は定番ですね。それとしばらく会っていなかった人に言う「眞久無看」(chin1 ku2 bo5 khoaN3)も必修です。おそらく日本でも、昔から「お久しゅうございます」はあったと思います。今はもちろん「お久しぶり(です)」になりますね。
台湾語の「[イ尓]好」(li2 ho2)は北京語の「[イ尓]好」の直訳でしょう。この「[イ尓]好」を日本では「こんにちは」と訳していますが、むしろ「はじめまして」の意味合いが強いです。日本も歴史的に長らく中国文明の影響下にあったので、親しい間柄で、よそよそしい挨拶はしない傾向があります。親友に呼びかけるときは相手の名前だけが普通です。台湾も同じようで、友人にあまり「[イ尓]好」は使いません。具体的に「お元気ですか」という意味で、「[イ尓]好[口馬]?」は使うと思いますが。

台湾の友人との挨拶

No.3730 投稿者:梧棲  Mail  投稿日:2017年08月20日(日) 15時47分21秒

 台湾の友人との挨拶
ふきさん、皆さん 今日は。

 私は妻が元気な頃は年に2回、毎年1回手術・入院するようになってからは1年に1回しか台湾に行けないので台湾の友人達との挨拶はいつも互いに「眞久無看」です。日本語が話せる友人は「お久しぶり」と返してきます。
定宿のホテルのフロントともチェックイン時は同じ挨拶になります。
 翌朝朝食のため1Fに下りるとフロントの女性達とは[gau5 cha2]と互いに
挨拶します。朝9時半頃に外出する時に遭うフロアメイドも同じ挨拶です。
 友人達と別れる時は「明年見か下次見」です。
 私も「?好、?們好」は台湾の友人に使ったことがありません。

続・「こんにちは」考

No.3729 投稿者:ふき  投稿日:2017年08月14日(月) 15時58分08秒

tecoさん、みなさん、こんにちは。
「こんにちは」と「こんばんは」をもう少し掘り下げてみることにします。
この言葉は一般的に親しい間柄では使いません。たとえば朝起きた時に、父親が娘に「おはよう」と言うことはあります。しかし昼過ぎに起きたとき、「こんにちは」と言うでしょうか。また、別居している息子が夕方、実家に戻って来たとします。母親が息子に「お帰りなさい」とは言いますが、「こんばんは」と言いますか。よそよそしいですね。この言葉は家族間では使いません。さらに言うと、たとえば会社内で、この言葉を使える相手は自分と同等か目下の者だけです。平社員が社長や部長に「こんにちは」や「こんばんは」は使えません。それでは「おはようございます」なら、どうかと言うと、これは誰にでも使える便利な言葉です。業界によっては、夜でも使うところがあります。「おはようございます」には「早い」という意味があるだけで、「朝」の意味はないので、「相手と早く会えた」という気持ちがあれば、いつでも使うことができるのです。「おはようございます」≠「Good Morning」です。
ついでにいうと、中国語の「早安」の中の「早」は日本語の「早い」ではなく、中国語の「朝」の意味であるため、使用期限は「正午」までです。「早安」=「Good Morning」となります。ただ、これも親しくなると、tecoさんのおっしゃる通り、「早!」かせいぜい「早阿!」ときわめて簡単になりますね。
さて、そろそろ締めですが、私は日本語の「おはよう」や中国語の「早安」が昔から使われて来た伝統的な挨拶用語だったのではないかと考えています。それ以外は西洋語の影響で、後から造語されたのではないか。ただ、どれも歴史が浅いため、市民権は得たものの、「いつでも」、「どこでも」というようにではなく、限定的な使用法となっている。たとえば中国語の「午安」ですが、一見して、英語の「Good Afternoon」の訳語に思えます。中国語の造語力はすばらしい。Facebookではよく目にする語ですが、でも私の手持ちの辞書にはありません。

続・こんにちは

No.3728 投稿者:teco  投稿日:2017年08月13日(日) 21時14分44秒

ふき兄、大家、晩安。

言われてみればそのとおり、台湾の親しい友人はしゃっちょこばった挨拶はしません。たいていは
「早」とか「安安」で終わりですね。
もともと話し言葉と書き言葉がかなりちがいますからそうなっちゃうのでしょうかねえ。
私の友人(熱心な仏教信者)などはなんでも一字で決めるようなところがあり、是、賛、対、満などを多用します。こんにゃく問答のような感じですが、多くの言葉を用いないのを美徳とする風習でもあるんでしょうか?
ETCのない車が高速道路の料金所に入ると、相変わらずニーハオとアナウンスされ、料金を払うとシェシェ、バーが開くとサイチェンと言います(^^♪


「こんにちは」考

No.3727 投稿者:ふき  投稿日:2017年08月13日(日) 13時40分00秒

tecoさん、みなさん、こんにちは。
私はてっきり、tecoさんが中東に出張される予定だったので、髭を伸ばすことにしたのかなと勝手に理解していました(笑)。あちらでは髭が尊敬の対象になりますからね。ただ、ここまで立派になると、もう剃るのは勿体ないです。髭の美学は基本的に男性の価値観なので、ご家族の女性陣にわかっていただけないのは致し方ないところかも…(笑)。

さて、お盆休みで暇なので、私なりに挨拶用語の探求をしてみました。素人の発想なので、専門家の方から「そんなことはない」と言われる可能性があります。
「こんにちは」は現在一番ポピュラーな日本語の挨拶言葉ですが、はたして、いつごろから使われているのでしょうか。時代劇に出てこないところを見ると、どうも明治以降のようです。私は「こんにちは」と「こんばんは」の表現は、西洋語からの影響と見ています。つまり英語の「Good Morning / Good Afternoon」と「Good Evening」に対応する新しい挨拶表現として、「こんにちは」と「こんばんは」が作られたと見ています。ちなみに日本語には「おはよう(ございます)」という表現がありますが、こちらの歴史はもっと古そうです。形から推察するに、明治以前から使われていたようで、それがたまたま朝に多用されていたので、今では「Good Morning」の訳語になっていますが、本来あまり時間には縛られず、一日中使っていたのではないでしょうか。つまり明治以前の挨拶用語としては「おはよう(ございます)」が主役だったのかも知れません。

ちなみに中国語の場合、「[イ尓]好」が一般的な挨拶表現とされていますが、これは初対面で使うことが多く、親しい間柄ではあまり使いません。そもそも中国人は挨拶をあまりしないと言われています。そんなわけで、以前はよく「吃飯了[口馬]?」を挨拶代わりに使っていました。これは台湾語でも「吃飽未?」(Chiah8 pa2 be7)というので、同じ発想です。実際に食事したかどうかはどうでもいいのです。あと日本語の「おはよう」と同様に、台湾語では「賢早」(Gau5 cha2)がよく使われます。昔から使っていたんでしょうね。もちろん今では北京語の「早安」のほうがよく使われます。「晩安」は「おやすみなさい」に使われますが、英語の「Good Night」の訳語でしょうか。なお大陸の中国人がよく使う「早上好」(Good Morning)や「晩上好」(Good Evening)の表現は台湾では聞いたことがありません。

こんにちは

No.3726 投稿者:teco  投稿日:2017年08月12日(土) 13時41分20秒

ふきさん、みなさん、こんにちは。

中東から戻って以来仕事が山積みになっていて、それをこなすのにおおわらわでした。
私は今日から盆休みで、16日までゆっくりできます。
今日はうちのスタッフの福山君(先日池袋に一緒に行ったちょっと変わったやつ)の誕生日で、
歌舞伎町で一杯やろうと言うことになっています。
おまえ、いくつになったんだ?
歳のことはいいじゃないですか、あはは。
という調子で、周囲の者は彼の年齢を知りません。
たぶん、50歳は超えてるはずですが。。
正月から生やし始めた髭もとちゅうで一回剃ってしまったのですが、また結構伸びてきています。
10月の訪台までまだふた月ほどあるので、それまで伸ばし続ける予定です。
10月末に友人が建てている道院の竣工式があり、寄進者のひとりとして参列する予定です。
祝い用の道服をっ着て正装しますので、髪も髭も伸ばしていますが、家族は貧相だのみっともないなどと呆れています(笑)
天候不順の今日この頃、みなさん体調に気を付けて元気にお過ごしくださいますよう。

お帰りなさい

No.3725 投稿者:ふき  投稿日:2017年07月19日(水) 21時04分54秒

tecoさん、こんばんは。
昨夜の関東地方は天候が大荒れで、雷雨も鳴り響いていましたが、無事に帰国されたようで、何よりです。
今回はトルコの軍楽隊のご友人が大活躍ですね。アンマンはたしかにシリアやイラクに近いので、治安を心配する人もいますが、現地に行くと、意外にあっけらかんとしています。エジプトでは空港や駅などで、必ずX線の荷物検査をして、客を施設内に入れますが、ヨルダンではほとんどスイスイ通過だったような気が…。もっともあんまり気にしすぎると、どこへも行けません(笑)。
ISの話が出ましたが、イラクの拠点モスルを失い、もうほぼ壊滅的のようです。シリアのラッカも時間の問題でしょう。中東が平和になればいいですね。私は酒がダメで、豚肉も食べますが、あまり好きなほうではありません。おまけにここだけの話ですが、風呂も面倒くさいタチなので、中東はパラダイスです(笑)。
小池百合子さんはエジプトで人気がありますね。エジプトは物価が安いので(安かったので)、留学は楽だったとか言っていた人もいましたが、そんなことより今でも美人なので、若い時はまさにアイドルのような可愛いらしさだったでしょう。そんな彼女があのリビアのカダフィ大佐との会談をセッティングするなど、ほんとに「女は度胸」を地で行ける数少ない政治家です。頭の回転がよく、話に無駄がなく、言葉がストンと落ちます。私は将来の女性総理も十分ありと考えています。


帰国しました

No.3724 投稿者:teco  投稿日:2017年07月19日(水) 10時32分09秒

ふきさん、みなさん、おはようございます。

昨晩帰国しました。
今回の旅行は電源開発関連の現地視察ということで、経産省の役人や大手電機会社の技術者など総勢22人の大所帯でした。
私は大型蓄電池の担当で、補助電源設備の設置場所選定に関与する立場で参加しました。
公用旅券の発給を受け、臨時公務員としての参加です。
期限付きではありますが、公用旅券と言うのはわりと便利なもので、個人的な荷物は検査されますが、団体用荷物としてパッケージされたコンテナにはなんでも入れられるので助かります。
お土産として持っていったカルピスやインスタント食品、コーヒーなどもほかの資材と一緒に混載できますし、現地で購入した楽器などかさばる品も問題なく入れられました。
今回特に面白かったのは、イスタンブールの軍楽隊の友人が案内人として同行を命じられたことでした。
10年来の友人だと言うだけで政府から軍楽隊に指示が出て、出張扱いで同行するように命じられたと本人も喜んでいました。
アンマンはISとの戦闘の傷跡も生々しく残っており、軍部のクーデター未遂事件を受けて準戒厳状態が続いていますが、人々には活気があり、市場にはたくさんの商品が溢れています。
経産省の役人が持参したお土産は緑茶や花器などで、いずれも日本を代表する品であることは一目でわかりますが、
私の持参したイスラム法に則って製造されたカップヌードル(マレーシア製)のほうが喜ばれたみたいです。
虎屋の羊羹も好評で、曙の甘納豆も喜ばれました。
他の参加者はほとんどお土産の用意がなく、私が次々に取り出すお土産に驚いていました。
私は観光旅行でもお土産をたくさん持って行き、現地で親しくなった方やお世話に成った方にお礼としてお渡しするのを習慣としています。
大会社の人はそういう経験もなく、気も回らないようです(笑)

カイロでは安倍首相より小池百合子さんのほうが有名人で、彼女のことをしきりに尋ねられてやや困りました。
将来日本の総理大臣になるかもしれないと言ったら皆さんとても喜んで、エジプト人は貴方を心から尊敬し応援しているとぜひ伝えてほしいとと言われましたが、伝えられるかどうか心もとないです(笑)

アスワンは二日間だけでしたが暑かったです。
湖での漁に同行させてもらい、ビニール傘の蒸留装置で得た水を飲みましたが、かしこい方法です。
ピラルクににた大きな魚が捕れ、マスに似た魚もたくさん捕れました。
村の首長が接待してくれた晩餐は豆のスープに魚のフライパン焼き、種類のよくわからない鳥の煮物などで、カイロよりあっさりとした味付けで美味しかったです。







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